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【東京街歩き】赤穂四十七士の物語と”創作”要素

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【東京街歩き】赤穂四十七士の物語と”創作”要素

(”【東京街歩き】本所松坂町公園 -吉良邸跡-(JR総武線・両国駅下車、両国公園傍)“から移転しました)

四十七士の物語と”創作”要素

四十七士の仇敵は?

いわゆる『忠臣蔵』の原型となった実話(赤穂四十七士の吉良邸討ち入り)には、討ち入りにどの程度の必然性があったのか、(旧赤穂藩士によって主君の敵と目された)吉良上野介の悪態が本当に世に伝わるほど辛辣なものであったのか、という疑問点が今なお残されています。

事件の詳細を吟味する以前に、一方当事者である赤穂藩主・浅野内匠頭が切腹させられてしまったためですね。

江戸城内での刃傷事件の真相が解明されていない以上、吉良上野介が理のある報復を受けたのか、それとも単なる浅野内匠頭の乱心に過ぎなかったのか、区別が付き難いのは致し方ないところだともいえますが、この疑問が残された状態で裁きが下されたことによって、浅野内匠頭および赤穂藩にとって一方的に厳しかったという”結論”の理不尽さが独り歩きを始めます。

仇敵は”吉良”なのか、それとも”裁き”そのものなのか。何かがおかしい、ではおかしいのは何なのかという憤りの一人歩きですが、公儀=幕府だったという当時の世の中の事情もあって、少なくとも赤穂四十七士にとっては”仇敵=吉良”と結論づけられることとなりました。

討ち入りを題材として作られた人形浄瑠璃・歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」(参考:歌舞伎演目案内仮名手本忠臣蔵“)や、大衆小説の大家・大佛次郎さんの名作『赤穂浪士』等後世の創作にも、その結論が少なからぬ影響を与えます。

主君が切腹させられ、主家が取り潰されている以上、赤穂藩士にとっては結論があいまいでは済まされない部分も出てきますが、それでは事後どのように振舞うことが正解なのか、”討つべき敵”がいるとするならそれは誰なのかを現実に即して検討する必要に迫られました。

その結論の一つの形が”討ち入り”だったのですが、ここで話しは原点に戻ります。

四十七士の行動は”主君に仕える家臣としての武士”の普遍的な道義を規範とするなら立場相応には正しかったのかもしれませんが、その行動を正しいと捉えるためには”仇敵・吉良”の存在が不可欠となる上、そもそもなぜ吉良上野介が仇敵だと目されたのかといえば、その理由は裁定自体が理不尽だと捉えられたことにも宿っています。

つまり赤穂藩士にとっては、吉良上野介共々「吉良を立て、不公平な裁きを下した人物、あるいは裁きそのものこそが仇敵だ」という判断も理に適ったものとなるはずなのですが、どちらかというとこの点には強く言及されないことが多く、結果的に一抹の含みを感じる結論になっているという面もあります。

結論として四十七士が命を賭けた”忠義”は、より強い力を持ったその時代の建前に処断される悲劇の物語へと繋がっていきました。

 

“上級国民”吉良家の地位と、大名としての赤穂藩

“真相不明の刃傷事件”の顛末が後世に伝え残される敵討ち物語として広まった故は、全てのはじまりである理不尽な裁定以外にも、当事者双方の身分関係、さらには当時の時代背景にも宿っていました。

“討ち入りの物語”で敵と目されてしまった吉良上野介の吉良家は、足利将軍家の支流にあたる名門家系で、太閤秀吉在りし日の五大老の一人・上杉景勝を輩出した山内上杉家との間にも縁戚関係があります。

というのも、徳川将軍家ともつながりが強い上杉綱勝(山内上杉家19代当主、米沢藩3代藩主)の妹を娶ったのが吉良上野介なのですが、吉良家はこの血統によって、江戸幕府の直参(じきさん)の中でも上位にあたる、高家(こうけ)旗本の地位を得ていました。

直参とは将軍直属の家臣のことを指しますが、直参のうち、将軍に謁見(えっけん)資格のある武士が旗本、無い武士が御家人です。

高家とは儀式や典礼を司る役職に就ける家柄を指しますが、高家であるとはすなわち当時有数の名家であったことを意味します。

当時の日本の総人口を3000万人で計算するなら、うち約7%にあたると判断されている武士の総人口は200万人程度、この200万人の中で旗本の実数は5000人程度で推移していたと言われています。

旗本である時点で武家の上位0.25%に入る計算ですが、高家旗本はその旗本の中でもさらに上位にあたるというように、吉良家は幕藩体制の中ではかなり突き抜けた家柄で、今風にいうのであれば”上級国民”の中でも上の部類、最上級にあたる家系でした。

対して赤穂の浅野家はといえば、1万石以上の石高=財産を持つ武士が大名と呼ばれ、さらに3万石以上の大名には城を持つことが許された時代、城を持てる大名としてはどちらかというとギリギリと言えなくもない、5万3千石の大名です。

大大名から比べるとやはり石高的には見劣りがしますということで、高家旗本である吉良家とは、位階の比較でそれなりにわかりやすい違いが出来ていました。

四十七士の物語は、圧倒的上級家系の吉良家に対して小規模な大名家である浅野家という「吉良家・浅野家双方の家柄の対比」が前提となることによって、判官びいき(悲運のものや弱者の味方をしたがる気質)を生じさせる性質を内包していたため、理不尽に裁かれた浅野家側の対応如何では世論が大爆発しかねない、という前提が用意されていたんですね。

 

元禄期の世相

赤穂四十七士の時代である元禄期(1688年~1704年)は、18世紀後半から19世紀前半にかけて栄えることになる江戸を中心とした文化(特に文化・文政期の文化)に先行して、上方(京都・大坂)中心の文化が栄えた時代です。

江戸時代に入って国内の様相は一変し、安定した統治が世の太平をもたらすこととなった一方、そもそも江戸幕府を支えた幕藩体制は安土桃山時代の遺産から生まれています。

国内は未だ戦国時代の遺伝子を引き継いだ状態でもありましたということで、元禄期はまた、戦国・江戸の過渡期から、幕藩体制の安定期に移り変わろうとしていた時代でもありました。

江戸幕府最初の三代では、武士や諸藩に荒々しさや臨戦態勢を残したままでは治安の維持が図れないとの判断の下、敵討ちや新規の築城、争いごとが禁じられ、城の修繕も大名の結婚も許可制、違反者は厳罰に処すといったように、武士全般の統制に力が入れられるのですが、その成果が社会に根付いてきた時代だったんですね。

一般町民が自由闊達な空気を謳歌できた時代だったといわれる反面、武士の間では戦国風の荒々しさが美徳とされなくなった時代であり、旧来の価値観を捨てきれない武士が無頼の傾奇(かぶき)者となって、当時大量に発生した(厳格な武家諸法度適用による改易で、主家を失った)浪人共々、社会の秩序から弾かれ始めます。

 

将軍綱吉の治世

一連の規制は武家諸法度とその改正版という形で発布されますが、三度目の武家諸法度である天和令が出されたのが1683年(天和3年)、発布したのは五代将軍・徳川綱吉でした。

将軍綱吉といえば武家諸法度の天和令以上に生類憐れみの令で有名な将軍ですが、吉良上野介を事実上不問に付した一方で浅野内匠頭に即日切腹を命じ、かつ浅野家に改易(赤穂藩領の没収)という厳罰を下した人物でもあります。

荒々しさを求めず、殺生も求めず、武士の”らしさ”もてこ入れされ、身分相応に質素にふるまうことのみが美徳とされたという、一連の規制と価値観を江戸幕府の一存でゴリ押しできた時代。江戸城松の廊下での刃傷事件が、時の将軍徳川綱吉の逆鱗に触れた事件だったのであろうことは(”被害者”である吉良家との距離を考えればなおのこと)想像に難くありません。

諸々含めて判断すれば、浅野家側に厳しすぎた処断が出てくることにも相応の理は宿りますが、ほぼ即断即決で一方にのみ厳罰を科すというやり方は理不尽といえば理不尽なものであり、結果的には後の大事件につながる後味の悪さを残すに足るものとなってしまいました。

とはいえ、世は天下泰平の時代へと移り変わりつつあった時代です。

亡君の仇を討った四十七士が命をかけて貫いた忠義は「将軍の裁定に異を唱え、敵討ちを実行し、世を騒乱した」という面を併せ持つものだったため、元禄期の武士のものとしてはあるまじき姿勢でもありました。

 

庶民の本音と事の顛末

結果四十七士ほぼ全員(四十七士の中で唯一、討ち入り直後に一行と行動を共にしなかった寺坂吉右衛門のみが切腹を逃れ、天寿を全うしています)に亡君と同じ切腹という厳罰が下されることになりますが、”討ち入り”に対して庶民一般の思うところは一体どうだったのかといえば、その隠された本音が仮名手本忠臣蔵(前記した四十七士唯一の生き残りである、寺坂吉右衛門死去の翌年に作られ、上演されました)の大ヒットに現れていたのではないかという解釈が導けるような気もします。

元禄期の武士が完全に忘れたと思っていた魂を四十七士は持っていた、実にアッパレという、それを痛快だと思う層にとってはたまらない話だったことでしょう。

幕府批判が出来ないために舞台を室町期に設定した創作”忠臣蔵”が大ヒットした、将軍綱吉の一方的断罪も含めて吉良上野介が仇となったという話であれば、世が世ならこの事件が討幕への流れを加速し、かつ赤穂藩の面々が維新政府の一角を占めたなんてことになったのかもしれませんが、肝心なのは、やはり事の発端となった刃傷事件の真相が闇の中にあり、裁定が偏ったものだったという部分です。

仮に赤穂藩側に”浅野内匠頭切腹、赤穂藩改易”という同じ結論が用意されることになったとしても、それがきちんと事件を吟味した上での裁きであれば、あるいは四十七士は討ち入りも切腹もせずに済んだのかもしれず、事と次第によっては”両成敗”の裁きが下った可能性にしても、なくはないのかもしれません。

後世の意見としては、

「浅野家の家来どもこの裁判を不正なりと思わば、何がゆえにこれを政府へ訴えざるや。四十七士の面々申し合わせて、おのおのその筋により法に従いて政府に訴え出でなば、もとより暴政府のことゆえ、最初はその訴訟を取り上げず、あるいはその人を捕えてこれを殺すこともあるべしといえども、たとい一人は殺さるるもこれを恐れず、また代わりて訴え出で、したがって殺されしたがって訴え、四十七人の家来、理を訴えて命を失い尽くすに至らば、いかなる悪政府にてもついには必ずその理に伏し、上野介へも刑を加えて裁判を正しゅうすることあるべし」(福沢諭吉『学問のすすめ(青空文庫)』第六編・国法の貴きを論ず(青空文庫))

とする近代的な見地からの正論もありますが、時の将軍の一方的な処断によって赤穂四十七士に主君の敵として討たれることとなった、図らずも”仇敵”として後世に名を残すこととなった吉良上野介にしてもまた、その時代の理によって死罪に処された四十七士同様、悲運の人なのかもしれません。

 

旧・吉良邸跡アクセス

 

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