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【秋の箱根泊2021/箱根旧街道線沿い史跡巡り その1】お玉が池
お玉が池と伝承
お玉が池
元箱根港から箱根登山バス・箱根旧街道線(ジョルダン・路線図)に乗って3つ目のバス停が”お玉が池”です。池のほとりに作られたバス停の名前は池の名によっていて、池自体も、箱根旧街道線のバス通り沿いすぐのところにあります。元箱根港発バスの進行方向である甘酒茶屋方面と、
元箱根方面の様子です。
お玉が池前の道路は、どちらも共に”山の中に通された道”感満載の舗装道路です。
昼間の間であれば気分良く歩けるハイキングコースの一部といった雰囲気が強い一帯ですが、一転して日暮れ後は一気に雰囲気が変わりそうな一帯でもありそうです。
野生動物にしても、夜間であればこの付近には普通に出て来るようです。
バス通り沿い、石碑のあるすぐ傍から池のほとりに降りることが出来ますが、
池への見晴らしがいい一帯に、”お玉が池”の石碑が置かれています。
池のほとりにに降りていくと、
池のすぐ傍まで歩みを進めることが出来るのですが、
水は結構綺麗です。
写真だとどこか濁って見えるのは、池の底が見えてしまっているからですね。
旧街道線のバス通り沿いからだと見えませんが、お玉が池の向こう側には小涌谷に向かう国道一号線が通されていて、県道732号線(お玉が池前の通り)と国道一号線(小涌谷方向に向かう箱根駅伝の走路)の間に挟まれた一帯(Googleマップで見ると、その中心部に”箱根の森“と記されています)は、ぐるっと周回できるハイキングコースのようになっています。
伝承
ところでこのお玉が池。元々は奈津那ヶ池(なずながいけ)と呼ばれる池だったのですが、とある事件を契機としてその事件の当事者となった女の子の名を付して呼ばれることとなり、今に至ります。
女の子の名は”お玉”、事件は関所破りです。
江戸に奉公に出ていた”お玉”ちゃんは、奉公先での生活に耐え切れなくなったことを理由として故郷の伊豆まで逃げ帰ろうとする途上、夜の箱根で関所の柵に引っかかってしまいます。つまり関所を超えることが出来なかったのだということで、やがて関所の役人に見つかり身柄拘束されると、それから二か月半の取り調べの後に死罪に処されてしまった、そのことを哀れんだ土地の人たちによって、奈津那ヶ池は”お玉が池”と呼ばれるようになった
ーーというのが命名の由来にあたる部分です。
故郷の伊豆まではあと一歩のところ、でも現場は夜の箱根、江戸からの距離を考えたら既にそれなりに疲れもたまっているはずで、柵に引っかかったというのもそこで力尽きてしまったということなんだろうか、とすると夜が明けて関所の役人に発見された時の心中(ほっとしたのか、それとも絶望したのか)や、既に未来が見えてしまっているそれから2か月半の間の心中は如何ばかりのものだったのか等々と、考え出すときりがなくなってくるところではありそうです。
とはいえこの辺りの事情については、当のお玉ちゃんのみならず、これを発見してしまった関所の役人の心中を慮ったとしても、察するに余りあるものが出てくるところでもあります。
少なからず、見て見ぬふりをしてあげたかったところではあるでしょう。
元々関所破りは重罪であり、通常であれば磔刑に処されてしまうところ、お玉ちゃんは罪一等軽い(といっても死罪であることに変わりはないのですが)獄門に処されたようです。
仮にこれが事実であれば、取り調べ中の色々なやり取りを通じ、やるせない気持ちになってしまった部分が多分にあったのかもしれません。
どのみち”お上のお触れに従う”結論は変えられなかったとしても、何か逃げ道はないものかと。
結果、磔刑ではなく獄門(斬首刑)となり、現在のお玉が池傍の”ヲイタイラ”(甘酒茶屋の傍に、かつて鎌倉時代に親鸞が弟子と別れた場であるという曰くのある、笈の平-おいのたいら-碑という石碑があります)にて刑(斬首)が執行されました。
お玉ちゃんが関所を破った現場が、刑が執行された”ヲイタイラ”、刑の執行後、お玉ちゃんの死を哀れんだ人々によって、すぐ傍にある池(奈津那ヶ池)の名が”お玉が池”と変えられ今に至ります。
ちなみに”お玉が池”石碑の裏には、バス通り側からだと見えないのですが、池の名前の由来についてのコメントが付されています。ここでは「磔獄門に処された」とされていますが、残された資料には「獄門に処された」とあります。
もし前者(磔獄門)であれば、両手両足を縛られた上で絶命するまで両サイドから槍でめった突きにされますが、後者(獄門)であれば斬首一発で済みます。いずれも”獄門”なので、死後首を晒されることにはなるのですが、一文字違いで刑の内容そのものには相当な違いが生じます。
果してどちらが本当のことなのでしょうか。今となっては知る由もありませんが、せめて後者であってほしいとは切に思うところです。
余談として、お玉ちゃんが関所破りに失敗してしまったのは元禄15年(1702年)、当時の日本社会に衝撃を与え、後世に数々の逸話を残した赤穂浪士の討ち入りの年です。
関所破りが二月、刑の執行が四月、討ち入りが十二月ですね。
四十七士の顛末にせよ、お玉ちゃんの処遇にせよ、いずれも世が世だったのだということを思わせる伝承です。
(参考:箱根町観光協会『箱根関所の見どころ 歴史編2』2021年3月30日)