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【街歩きと横浜史】鉄道以前の交通手段 -海路と陸路-

沿線雑学/ガイド

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【街歩きと横浜史】鉄道以前の交通手段 -海路と陸路-

神奈川湊と横浜港

湊と港

近代の横浜港(現在の中区日本大通り界隈)を巡る交通は、陸路・海路共、東海道の神奈川宿、およびその近隣に作られた神奈川湊を起点とする形で進みます。

神奈川宿傍には湊があり、横浜には新たに港が作られたという、”湊”と”港”のニュアンスの違いですが、前者は古来よりその地形が利用される形で水上交通の拠点となっていた地、後者は近代以降、従来の”湊”を利用したものを含み、交易施設として改めて整えられた地を指します。

語義に沿って解すのであれば、あえて埋め立てて造られたふ頭や波止場など、はじめから人の手のみで育てられた海沿いの交易施設は”港”ではあっても”湊”ではありません。

反対に、”港”の中にはかつて”湊”だったものも含まれています。

元々の地形が利用される形で水上交通の拠点となった神奈川宿の船着き場等は”湊”、開港を契機として人工的に整えられた横浜の波止場や桟橋は”港”に該当しますが、例えば同じく開港都市である新潟では、旧来の”湊”が近代以降に改めて”港”として整えられました。

“横浜”までの海路と陸路

開港場・横浜と東海道・神奈川宿との間では、神奈川湊が近世以来の漁港かつ交易口だったことを端点とする形で、まずは神奈川湊を起点とする和船航路が発展します。

神奈川湊発・横浜港行き航路は、新たに開拓された横浜道に比べて使い勝手が良かったことから、陸路を上回る形で進化・発展します。明治以降は東京の永代橋と横浜を結ぶ海路のルートが拓かれ、蒸気船を使った定期航路が就航しました。

幕末、和船航路の発展期に横浜道が開通し、その後明治の世になってから、今度は東京湾上に定期航路が就航したという形ですね。

現在であれば、山下公園・横浜駅東口(ベイクウォーター)間を結ぶシーバスの航路にかつての横浜・神奈川便の面影の片りんが遺されているようにも感じますが、幕末からいわゆる”維新期”にかけては、横浜港へは陸路より海路で入るのが一般的となっていました。

とはいえ、かつての神奈川宿の手前に位置する横浜駅東口までの航路ですら、象の鼻スタートで考えたとしても結構な距離があります。

それでもなお海上航路の方に軍配が上がったというあたり、当時の陸路(東海道から横浜道を経由し、横浜港へ至るルート)のありかたが思い浮かぶようでもありますが、元号が明治となってほどなく、横浜・東京間の海路に全盛期が訪れました。

蒸気船から馬車・人力車へ

横浜港と交通事情

横浜”港”を取り巻く海陸それぞれの交通路は、

1.神奈川湊発の経路は渡し舟の役割を担った和船が、

2.東海道からの陸路は当時の海岸線沿いの道であった、”しんみち”と呼ばれた横浜道が、

それぞれ先導しました。

ただし、かつての横浜道は海路と比べて悪路だったようです(『横浜 中区史(1985.2.1)』P203他)。

そのため、まずは海路(神奈川湊発の和船航路)が発展し、そこに陸路(旧東海道からの分岐路である横浜道)が追い付き、さらに追い越していくことで、新たに首都となった東京との距離が詰められて行くこととなりました。

浅間下から吉田橋、吉田橋から象の鼻までの距離

横浜道は、横浜駅西口方面にある浅間(せんげん)下交差点を起点とする、現在の新横浜道り(県道13号線)に該当する道です(横浜市公式横浜旧東海道みち散歩“内、横浜道の項)。

当時の大動脈だった東海道(現・横浜市主要地方道83号線)と、開港したばかりの横浜の間を結ぶ形で新たに作られた道で、幕末の万延元年(1860年)に整備されました。

横浜道の終点は現在の吉田橋関門跡付近にあった(リサイクルデザイン2012年11月号 “横浜道を歩いてみよう“)ようですが、地図で見るとわかる通り、東海道側起点(冒頭に記した浅間下交差点付近)と開港場(現在の象の鼻パーク一帯)との間にはそれなりの距離があります。

翻って、そもそも幕府が最終的に横浜開港を容認した理由の一つには、神奈川宿や東海道との間に横たわるこの距離があったのですということで、浅間下から吉田橋まで、吉田橋から象の鼻までは、決して歩けない距離ではなかったとしても、反対に至近距離にもありませんでした。

馬車の登場

まずは海路が開けた横浜と江戸・東京間ですが、東海道へのバイパスとして通されていた横浜道にも、ほどなく発展期が訪れます。

きっかけは、馬車交通が整備されたことでした。

開港場・横浜から伸びた横浜道は、浅間下で東京への大動脈である東海道へ合流しますが、この横浜道が”馬車道”として整備(1869年=明治2年)されることによって、東京・横浜間が馬車で繋がれることとなったため、”横浜道”=陸路での横浜入り自体がメジャーなルートへと進化したんですね。

現代において馬車といえば観光用途か、あるいは皇室の儀式で儀装馬車(宮内庁公式サイト “儀装馬車の概要“)の利用が慣例とされていることなどから(同 “信任状捧呈式の際の馬車列“)、どこか高貴な乗り物であるというイメージが付きまとう節もありますが、前記したように元々「しんみち」こと横浜道は結構な悪路として始まっています。

そのため、やがて解消されることになったとはいえ、開通当初の馬車の乗り心地はそれなりのものだったようで、横浜・東京間の馬車での移動は中々ハードな行程だったようです。

馬車道の開通と、馬車の盛期

横浜道や東海道が馬車の道として整備されたこの時期、日本で初めての乗合馬車の発着場が、現在の馬車道商店街付近に作られました。

“馬車道”商店街の”馬車道”の由来は、かつてそこが日本初の乗り合い馬車の乗車場だったことに宿っていますが、”駅”としての名残りは、現在の馬車道にも“牛馬飲水”跡という形で残されています。

一方で、”馬車の道”敷設は横浜と東京都心部を結ぶものに限られず、1.横浜(開港場)を起点として鎌倉、江の島、小田原、箱根、伊豆各方面へ、2.神奈川(宿)を起点として八王子方面へというように、東京都心部とは違った多方面へも展開されたようです。

その通され方が示唆するように、”馬車の道”は、後の鉄道網のルーツとなりました。

馬車の普及は隆盛を誇っていた東京湾上の和船・蒸気船航路の衰退をもたらすことにつながるのですが、交通手段としての馬車は、やがて鉄道にとって代わられることになります。

(参考:西川武臣『横浜開港と交通の近代化』日本経済評論社、2004年11月25日)

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