神奈川湊と横浜港
神奈川湊と横浜港
湊と港
横浜が開港した幕末期。
開港場・横浜(現・横浜市中区)の近隣に位置する神奈川湊(現・横浜市神奈川区)は、17世紀初頭以降江戸時代を通じて成長を遂げ、東京湾上の海上交易の一大拠点として繁栄の時を迎えていました。
東海道五十三次で日本橋から三つ目(日本橋-品川-川崎-神奈川)の宿場町、神奈川宿傍の湊ですね。
ちなみに”湊“(あるいは津)とは、自然の地形を利用する形で作られた水上交通の拠点です。
これ対して”港“とは、”湊”に(船着き場として、より利用しやすい形に)人の手を加えたものの他、例えば新たに埋め立てて造られたふ頭や波止場など、海沿いの人工貿易施設を指します。
原則として、江戸時代以前に交易・漁業用途等で使われていたものが湊(もしくは津)、明治期以降に作られた貿易(ほか、漁業、観光etc)用の施設の多くが港だと捉えればそれで大体は合っていると思いますが、例えば同じく開港都市である新潟や神戸では、古来より海上交易の拠点となっていた湊(津)が近代以降に改めて港として整えられた、という歴史を持っています。
同様に、開港期既に繁栄の時を迎えていた神奈川には湊(神奈川湊)があり、新しく開かれた横浜には開港と同時に港(横浜港)が作られることとなりました。
余談として、神奈川宿や神奈川湊の位置について。
既に埋め立て工事等によって、横浜市域の大部分のエリアからかつての海岸線が消滅している他、神奈川宿界隈については、第二次世界大戦時の戦災によって、主だった史跡も一度消滅しているようです。
そのため、神奈川宿や神奈川湊内の関連施設の位置にしても「現在の京急東神奈川駅(旧・仲木戸駅)付近の海沿いで、概ねこのあたりにあったのではないか」、と推定される形になっています。
参考
- 西川武臣『横浜開港と交通の近代化』(日本経済評論社、2004.11.25)
- 国土交通省関東地方整備局横浜国道事務所 “東海道へのいざない 横浜から保土ヶ谷へ“
- 横浜市(神奈川区)公式サイト “神奈川宿歴史の道“
- 【開港都市・新潟の風景/2021】旧新潟税関庁舎
- 【開国と開港/開港までの開港5都市】兵庫津と兵庫港、神戸港
神奈川湊・神奈川宿から横浜港へ
横浜港の開港に伴う形で港町・横浜の人口が急増したのは、神奈川(宿・湊)を拠点とすることが出来たからだともみられていますが、開港期の横浜港周辺の交通整備は、東海道の神奈川宿、さらにその近隣の神奈川湊が(横浜港を目的地とする形の)ターミナルとなる形で、双方が海路・陸路で結ばれることから始まります。
幕府の海外向け主張で「横浜港も神奈川湊の一部だ」と捉えられていたことを前提とするのであれば、まずは”神奈川湊の一部である横浜村沿岸部”を開港した上で、旧来より存在する大動脈(神奈川宿を起点とする東海道)に乗せることが狙われたんですね。
ともあれ、新規に開港した横浜港では、まずは神奈川宿・神奈川湊との間を結ぶ経路を重要な動線とする形で、”開港地の貿易港”としての歩みがはじまりました。
ちなみに交易と貿易の違いについては、あくまで個人的にはですが、前者は物々交換時代の取引まで含めたもの、後者は”貨幣を用いた売買に特化した取引”位のニュアンスで使い分けています。
参考
- 西川武臣『横浜開港と交通の近代化』(日本経済評論社、2004.11.25)
“横浜”までの海路
開港場・横浜と東海道五十三次・神奈川宿との間を結ぶ交通では、神奈川湊が既に拓かれた漁港かつ交易拠点だったこと、さらには新たに開拓された陸路(横浜道)に比べて海上航路の使い勝手が良かったことなどから、まずは神奈川湊を起点とする和船航路が発展します。
和船航路はやがて、蒸気船航路へと進化を遂げました。
結果、東京湾上では神奈川湊と横浜港の間が結ばれただけでなく、明治以降は東京の永代橋との間にも(横浜港との間を結ぶ)蒸気船を使った定期航路が就航したほか、国内の他開港地(箱館、神戸、長崎)との間を結ぶ航路も就航していたようです。
時あたかも、幕末からいわゆる”維新期”にかけての時期ですね。
山下公園・横浜駅東口(ベイクウォーター)間を結ぶシーバスの航路を若干北側にスライドさせると、”開港場(現・象の鼻パーク界隈) – 旧・神奈川湊“間を結ぶ航路になりそうな雰囲気はありますが、陸路の選択肢が豊富に用意されている現在であれば、”海路が陸路に利便性で勝る”とはならない二点間ではありそうです。
ただし当時はそうではなかったというあたり、開港当初の陸路(東海道から横浜道を経由し、横浜港へ至るルート)のありかたが思い浮かぶようでもありますが、元号が明治となってほどなく、横浜・東京間の海路に全盛期が訪れました。
参考
- 西川武臣『横浜開港と交通の近代化』(日本経済評論社、2004.11.25)
- 【みなとみらい線沿線ののりもの】沿線発着の観光船(シーバス、マリンルージュ他)
蒸気船から人力車・馬車へ
開港地・横浜への交通路は、まずは海路(神奈川湊発の和船航路)が発展し、そこに陸路(旧東海道からの分岐路である”しんみち”こと横浜道)が追い付き、さらに追い越していくという形で発展しました。
浅間下から吉田橋、吉田橋から象の鼻までの距離
横浜開港に伴って開通した横浜道は、横浜駅西口方面にある浅間(せんげん)下交差点を起点とする、現在の新横浜道り(県道13号線)に該当する道です。
当時の大動脈だった東海道(現・横浜市主要地方道83号線)と、開港したばかりの横浜港の間を結ぶ形で新たに作られた道で、幕末の万延元年(1860年)に整備されました。
横浜道の終点は現在の吉田橋や関門跡付近にあったようですが、地図で見るとわかる通り、東海道側起点(冒頭に記した浅間下交差点付近)と開港場(現在の象の鼻パーク一帯)との間にはそれなりの距離があります。
翻って、そもそも幕府が最終的に横浜開港を容認した理由の一つには、神奈川宿や東海道との間に横たわるこの距離があったのですということで、浅間下から吉田橋まで、吉田橋から象の鼻までは、決して歩けない距離ではなかったとしても、反対に至近距離にもありませんでした。
浅間下-象の鼻の二点間は今でも結構離れていると感じるので、当時であればその程度の印象では済まなかったことでしょうということで、先に海路が拓けたという点についても、尤もな理由があるにはあったんですね。
参考
- 横浜市公式サイト(横浜旧東海道) “横浜旧東海道みち散歩“
- リサイクルデザイン2012年11月号 “横浜道を歩いてみよう“
- 横浜開港と日米和親条約、日米修好通商条約(国交樹立と通商開始)
- 吉田橋関門跡(馬車道商店街、JR関内駅傍にある旧横浜道の関門)
- 象の鼻パーク(日本大通り駅最寄り、大さん橋傍)
馬車の登場
まずは海路が開けた神奈川-横浜間ないしは江戸(後に東京)-横浜間ですが、日本橋と京をつなぐ大動脈である東海道へのバイパスとして通されていた横浜道にも、ほどなく発展期が訪れます。
きっかけは、いわゆる”御一新”後に横浜道が”馬車の道”として整備(1869年=明治2年)されたことにありますが、このことが一つの大きなきっかけとなりました。
はじめからそうだった、ではなく、”そのことを契機として”陸路が海路に勝るようになって行ったという形ですね。
現代において馬車といえば観光用途か、あるいは皇室の儀式で儀装馬車の利用が慣例とされていることなどから、どこか優雅な、あるいは高貴な乗り物であるというイメージが付きまとう節もありますが、前記したように、元々「しんみち」こと横浜道は海路に引けを取る陸路(≒結構な悪路)として始まっています。
そのため、やがて解消されることになったとはいえ、開通当初の馬車の乗り心地はそれなりのものだったようで、馬車交通開通当初の横浜・東京間の馬車での移動は中々ハードな行程となったようです。
参考
- 宮内庁公式サイト “儀装馬車の概要“、”信任状捧呈式の際の馬車列“
馬車道の開通と、馬車の盛期
横浜道や東海道が馬車の道として整備されたこの時期、日本で初めての乗合馬車の発着場が、現在の馬車道商店街付近に作られました。
“馬車道”商店街の”馬車道”の由来も、かつてそこが日本初の乗り合い馬車の乗車場だったことに因っています。
ところで、”馬車の道”整備自体は横浜と東京都心部を結ぶものに限られず、1.横浜(開港場)を起点として鎌倉、江の島、小田原、箱根、伊豆各方面へ、2.神奈川(宿)を起点として八王子方面へというように、東京都心部とは違った多方面へも展開されました。
その通され方が示唆するように、後の鉄道網のルーツとなったのが”馬車の道”(その多くが旧街道、あるいは旧街道を起点とした新規の道)です。
馬車の普及は東京湾上の和船・蒸気船航路の衰退をもたらすことにつながるのですが、他ならぬ馬車自体もやがて鉄道にとって代わられましたということで、和船航路や蒸気船航路の盛期も、その直後に訪れた馬車の盛期も、今のJRその他に繋がっていくことになる鉄道の隆盛を思えば、ごく短い期間の出来事として歴史にその跡を残しています。
参考
- 西川武臣『横浜開港と交通の近代化』(日本経済評論社、2004年11月25日)
- 文明開化の街、馬車道歩き -西洋建築と”日本初”-
- 箱根湯本を街歩き(湯本小学校跡、箱根電燈発電所跡、小田原馬車鉄道・電気鉄道湯本駅跡)
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