“お茶室”エリアから聴秋閣へ
国指定重要文化財・聴秋閣
月華殿から聴秋閣へ
三渓園の内苑地区に移築された重要文化財・月華殿からの下り坂道に並行して流れる小川の先に位置しているのが、国指定重要文化財となっている聴秋閣です。
三渓園に正門から入った場合、月華殿や天授院等と並んで、内苑地区でも一番奥に位置しています。
参考
聴秋閣と二条城、春日局
聴秋閣は、かつて京都の二条城内にあったといわれる、徳川幕府三代将軍・家光とその乳母である春日局縁の建造物ですが、元々京都の二条城は、江戸幕府初代将軍の家康が征夷大将軍に任命されたことを祝う祝賀の儀が開かれた城であり、三代将軍・家光の時代まで、同様に祝賀の儀が開かれた城でした。
三代将軍・徳川家光の時代には、紫衣事件(朝廷が紫の衣を高僧に与える権限を幕府が認めなかったことによって起こった、朝廷・幕府間の確執)を巡って一時的に朝廷と幕府の関係が悪化したこともあったのですが、その紫衣事件の一方の当事者であった後水尾天皇を二条城に招くために造られた”行幸御殿”の一部が、現在の聴秋閣です。
行幸御殿増築は二条城の改築と共に、三代将軍徳川家光主導で行われますが、後水尾天皇の行幸後、行幸御殿の一部であった今の聴秋閣は、家光の乳母である春日局に下賜されました。
春日局の下に渡った行幸御殿の一部は、その後巡り巡って三渓園に移築されることになったのですが、”縁“とはすなわち、二条城に行幸御殿を増築したのが徳川家光であったこと、後水尾天皇行幸後に家光の乳母である春日局に”のちの聴秋閣”が下賜されたことを意味しています。
ところで、三代家光までは濃かったといえる二条城と将軍家の関係ですが、四代以降疎遠となる時期が続いた後、時は巡って幕末期に”二条城と将軍の縁”が復活します。
14代将軍徳川家茂が家光以来となる229年ぶりの将軍の二条城入城を果たすと、15代将軍・徳川慶喜は二条城内で征夷大将軍に就任し、かつ二条城内で大政奉還(政権を朝廷に返上する宣言)を行いました。
結果として江戸時代始めの三代と最後の二代の節目、共に二条城が絡むこととなったという、江戸城と並んで江戸時代を象徴するお城の一つに挙げられるのが二条城ですね。
参考
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