港の見える展望台へ
展望台からの眺め
展望台のロケーション
港の見える丘公園内・展望台は、公園中央部の西側に位置しています。
谷戸坂上の交差点前に作られた入口から公園に入った場合、奥に進んだ突き当たりの一帯がそうです。
参考
景観
港の傍に切り立った丘の上で、一番”港寄り”の一画に作られているのが展望台エリアです。
展望台の左手には、山下公園エリア(マリンタワー、氷川丸)や大さん橋、さらにはみなとみらいの高層ビルの一部(インターコンチネンタルホテル)など。
比較的新しい横浜や、新しい横浜が遠望出来ます。
正面には、新山下の町並みの向こうに、横浜港が望めます。
確かに”港”らしき方向を望むことは出来るのですが・・・、と言ったあたりが今日の景観に対する、率直なところでしょうか。
“丘公園展望台からの景観が云々”というよりは、むしろ逆に”山下公園通りから道なりに伸びた横浜市道82号線沿いから、丘公園の展望台が見える“(※)という点が、興味深いというか、面白く感じるポイントです。
「なるほど。もしかするとその昔は、この辺り(さらにはここより海側の陸地)は既に海だったのかもしれないね」を実感できるみたいな感じですか。
向かって右手は新山下・本牧ふ頭方向ですが、ここもやはり海岸線が埋め立てられる前の風景が偲ばれるところですね。
現在の眼下に広がるのは、公園内文学館エリアの先、ちどり坂を下って進むことが出来る新山下一帯です。
参考
- 【横浜港と公園】山下公園(大さん橋、横浜中華街傍)
- 【みなとみらい線沿線の四季/秋の横浜2021】秋の山下公園通り(山下公園前)
- 大さん橋国際客船ターミナル(日本大通り、象の鼻パーク傍)
- 【横浜山手の坂道】ちどり坂(別名むじな坂。港の見える丘公園から新山下方面へ)
- ヤフーマップ “新山下一丁目交差点“(Googleストリートビュー)
展望台の周囲
2002年W杯横浜開催記念植樹
公園入り口から進んだときにほぼ突き当りにあたる位置、
展望台横には、2002年W杯の横浜開催(決勝戦他)されたことを記念する植樹があります。
記念植樹されたヨコハマヒザクラの前に置かれているのは、近年の春の横浜名物である”ガーデンネックレス”のマスコット、ガーデンベアくんです。
参考
“コクリコ坂から”の舞台碑
記念植樹の横には、港の見える丘公園が映画”コクリコ坂から”の舞台となったことを記念する碑が置かれています。
”コクリコ坂から”の碑のすぐ横には海沿いを歩ける通路と香りの庭がありますが、双方とも、大佛次郎記念館等がある公園内の文学館エリアと繋がっています。
参考
“港が見える丘”歌碑
展望台エリアには、”港が見える丘”歌碑があります。”丘公園”の持つ風情にも被って来るところが多くあるという、昭和22(1947)年の流行歌ですね。
“港が見える丘”という歌がどこの港・丘を歌ったものであるのかについては、作詞者が”モデルとなった地”を明言していないことから諸説(?)あるようです。
諸説というよりは、横浜説と神戸説が並立している状態ですね。
確かに横浜(特に丘公園界隈)にもマッチするといえばそういう曲ではあるのですが、件の曲を作詞・作曲した東辰三さんが神戸出身であるあたりは、多くを物語るところでもありそうです。
曲の舞台が明言されているわけではないとはいえ、素直に解せば、曲そのものは故郷の神戸を思って作られた曲なのでしょう。
しかし、同時に横浜においてもこの曲に思いを馳せる人が多数いたということで、戦後の荒廃した空気の中で”かつての横浜”を思いつつ、なんとかこの雰囲気にあやかりたいと、そんなところだったのではないかと察します。
曲誕生の15年後(昭和37年)に開園したという公園の名前が、まさに曲名そのままとならず「港の見える丘」公園となったあたりには、見方によっては(?)”諸説”への配慮、作詞した東さんの出身地・神戸への敬意や忖度も感じられるところとなっていますが、実際石碑の説明においても”曲のご当地”を主張する形ではなく、「曲に思いを馳せたこと」が命名の由来になったとされています。
歌碑は、展望台の向かい、かつ”ポートヒル横浜”前の花壇の中央部に置かれています。
参考
フランス山地区へ
歌碑が置かれた花壇の先にあるのは、夜間は閉鎖されているフランス山地区の入り口で、
ここからも、港方向への視界が開けています。
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