【街歩きと横浜史】三渓園 -聴秋閣-

三渓園と本牧エリア

この記事を読むのに必要な時間は約 5 分22秒です。

【街歩きと横浜史】三渓園 -聴秋閣-

聴秋閣

月華殿からの下り坂道に並行して流れる小川の先に位置しているのが、

現在、国指定の重要文化財となっている、聴秋閣です。

三渓園に正門から入った場合、月華殿や天授院等と並んで内苑地区でも一番奥に位置しているのが、聴秋閣と遊歩道(遊歩道は期間限定公開)です。

 

聴秋閣と二条城

江戸時代と二条城

聴秋閣は、かつて京都の二条城内にあったといわれる、徳川幕府三代将軍・家光とその乳母である春日局縁の建造物ですが、京都の二条城は、江戸城と並んで江戸時代を象徴するお城です。

というのも、初期においては、江戸幕府初代将軍の家康が征夷大将軍に任命されたことを祝う祝賀の儀が開かれた城であり、三代将軍・家光の時代までは、同様に祝賀の儀が開かれた城だったのが二条城だったんですね。

江戸幕府の幕政が「武断政治から文治政治へ」という大きな転換点を迎えた四代将軍家綱の時代以降、一旦この慣習は途絶えてしまうのですが、時は巡って幕末になると、14代将軍徳川家茂が家光以来となる229年ぶりの将軍の二条城入城を果たします。

さらに、続く最後の将軍である15代将軍徳川慶喜は二条城内で征夷大将軍に就任し、かつ二条城内で大政奉還(政権を朝廷に返上する宣言)を行っていますが、このことによって、江戸時代の始まり(始めの三代)と終わり(最後の二代)に、共に二条城が絡んでくることとなりました。

江戸幕府開府間もない時期(三代将軍・徳川家光の治世)には、紫衣事件(朝廷が紫の衣を高僧に与える権限を幕府が認めなかったことによって起こった、朝廷・幕府間の確執)を巡って一時的に朝廷と幕府の関係が悪化したこともあったのですが、その紫衣事件の一方の当事者であった後水尾天皇を二条城に招くために造られた、「行幸御殿」の一部が聴秋閣です。

「行幸御殿」増築を含む二条城の改築は、三代将軍の家光主導で行われました。

“春日局縁”とは、後水尾天皇の行幸後、行幸御殿の一部であった今の聴秋閣が春日局に下賜され、その後巡り巡って三渓園に移築されることになったという部分を指しています。⠀

・・・というあたり。

サラッと流そうと思えばサラッと流れていく部分でもあるのですが、実はこの一連の流れの中に、ある意味当時一流ともいえる、摩訶不思議な人間関係が含まれています。

 

春日局と南光坊天海

斎藤利三の娘・お福

聴秋閣と縁を持つ徳川家光の乳母・春日局は、戦国武将・斎藤利三の娘です。

幼名を、お福と言いました。

お福=春日局の父である斎藤利三は、戦国時代、明智光秀に家臣として仕えていました。

明智光秀といえば、言わずと知れた本能寺の変で主君・織田信長に謀反を起こしたとして知られる人物で、”三日天下”と言われた約10日間の天下を取った後、山崎の戦にて豊臣秀吉に討たれてしまうという、どこか儚いイメージを持つ戦国武将です。

戦国武将・明智光秀や、信長や秀吉の治世、あるいは信長や秀吉の人となりにどのようなイメージを持つかによって、いわゆる”三日天下”を儚いと捉えるか自業自得と捉えるかも変わって来そうなところですが、とりあえず今はそれは置いておきますね。

逆に、山崎にて光秀を討った秀吉はここから一気に天下人へ近づいていき、最終的には関白(1585年)・太政大臣(1586年)から太閤(1591年、甥っ子の秀次が関白就任)へと昇り詰めることになるのですが、その秀吉亡き後に徳川家康の江戸幕府にて、家康の孫である三代将軍・徳川家光の乳母に抜擢されたのが、かつての光秀の家臣の娘・お福こと春日局でした。

上辺を取っただけでも、なんとも波乱の世を連想させる話ですね。

 

徳川家と斎藤家の縁は?

ですが、この人事には、単なる奇遇を超えた”力業”が潜んでいるようにも伝わります。

敵陣営にいる身内が、(義理の関係含めた)縁によって命を救われるという話であればわからなくもないのですが(例えば、大坂夏の陣の後に天秀尼が救われたような話ですね)、元々敵陣営にいた敵方武将の縁者(春日局の父である斎藤利三は山崎の戦い後、秀吉軍に捕縛され処刑されたといわれています)が、”なぜか”政権の安定と共に取り立てられ、かつ大奥を幕府内の一大勢力として整えていくことになるという話は、異例中の異例ではあります。

確かに、”織田陣営(政権)”のくくりで考えれば徳川家康・豊臣秀吉は同陣営ですが、”豊臣家””徳川家”双方の関係で考えるのであれば、両家の間に真の友好関係があったかどうかは微妙なところではあります。

「豊臣家に仇を為すからといって、それが即徳川家の敵になるのか」にしても、両家は元々対立の後に妥協から和睦している、関ヶ原から大坂冬の陣・夏の陣への顛末を考えれば逆が成立してしまう(豊臣の敵が徳川の味方である)というように、ケースバイケースになって来るわけですからね。

その辺を込みで考えたとしても、どの道斎藤家の末裔と徳川家の間が遠い関係であることに変わりはなく、逆に何を今更(わざわざ、あえてそういう抜擢を求めるに足る理由が、何かあるのかな?)という感じの話しになりそうではあります。

要するに「そこに何の必然性があってそうなったのか」というように、そうなるだけの理由を求めたとき、「単なる偶然だと捉えるには出来過ぎた何かを感じなくもない」といった匂いがどこか付いて回るわけです。

 

春日局と南光坊天海

この「謎」としばしば同列に語られる話として、南光坊天海(なんこうぼうてんかい)という、天台宗の僧侶の存在があります。

ちなみに南光坊天海は、出生や生年、経歴についてはほぼ不明で、いつの間にか徳川家康のブレーンになっていて、かつ初期の政策に大きな影響を与えたという、これまた謎の塊のような人物です。

単なる都市伝説なのか、それとも表向き認められていない史実なのか、その辺は神のみぞ知るところになってきますが、この南光坊天海こそが明智光秀その人である、という説があります。

光秀は、本能寺の変の後山崎の戦い後も生きながらえた、やがてそのことを知った家康との間に縁が出来、以降理想を共にする者同士として、幕藩体制を固めていくこととなったのだ

ーーというのが、明智光秀=南光坊天海説の主張です。

お福=春日局にまつわる謎も、光秀=天海説の文脈では「光秀がかつての家臣の優秀な娘=お福を知っていたのだ」(だからこそ光秀が推挙、家康が重用し、お福は春日局としての実績を残すことになった)という話としてすんなり腑に落ちてくるわけですが、「これが押しも押されもせぬ史実の本質なのだ」ではなく、聴秋閣縁の春日局の周辺には、教科書が語る歴史の行間に何やら浪漫あふれる話が潜んでいたのだというような、そんな感じの話しですね。

 

開園情報/アクセス

開園情報他

開園期間 12月29日~31日までを除く9時~17時(最終入園16:30)
交通案内 公式サイトに詳しい経路案内があります
入園料 中学生以上700円、小学生以下200円
割引制度 前売り券と20名以上の団体は100円引き
回数券/年間パスポート 回数券は大人:5枚3000円、子供:5枚500円。
年間パスポート:1年間2500円
駐車場 最初の2時間500円、以降30分毎100円。当日最大1000円。

 

アクセス(聴秋閣)

タイトルとURLをコピーしました