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【横浜山手の坂道】ちどり坂(別名むじな坂。港の見える丘公園から新山下方面へ)
ちどり坂の入り口
港の見える丘公園内・文学館エリアの端には、公園内から神奈川近代文学館(公式サイト)に続く霧笛橋が架かっています。
橋の手前には公園の出入口があって、
出口すぐ傍には文学館、
霧笛橋の下から始まる、港の見える丘公園と文学館の間に通された道は、そのまま港の見える丘公園前のバス通り(市バス20系統やあかいくつ号などが走っています)へと続いています。
バラとカスケードの庭へと繋がる公園出口を出ると、
そのすぐ先に新山下方面への階段坂が作られているのですが、この坂道が、別名でむじな坂とも呼ばれているちどり坂です(以下、”ちどり坂”で進めます)。
港の見える丘公園傍に通されたもう一つの坂道・谷戸坂と並び、スタジオジブリの映画”コクリコ坂から”(公式サイト)でモデルとされたのが、このちどり坂だと言われています(港の見える丘公園・展望台エリアには、“コクリコ坂から”の記念碑が置かれています)。
ちどり坂
ちどり坂へ
ちどり坂の向こうに見えているのは、新山下の町並みと本牧ふ頭(地図内左から二番目のふ頭が、この付近から最寄りにあるA突堤です)、さらには横浜港の様子です。
現在港の見える丘公園などがある山手町や、その隣に位置する山下町などは、横浜の開港とほぼ同時期に開拓がはじまった地ですが、山下ふ頭(山下ふ頭は、住所的には山下町です)や新山下、本牧ふ頭などは、横浜の発展に伴って開発された地です。
その事情が臨海エリアのお隣さん・山下町に対して”新”山下となっていることの所以でもあるのですが、元々”山手町地先”と呼ばれていた地に貯木場が建設された(1923年=大正12年)ことを皮切りに、ヨットの競技場が作られた時期(1941年=昭和16年)を経て、現在は本牧ふ頭のA突堤、ベイブリッジなどを有す、横浜港の中心部の一角を担う地となりました(参考:横浜市公式サイト・新山下の街づくり “歩み“)。
つまりこのちどり坂が通されている一帯は、横浜開港以来の歴史に沿って捉える場合、坂の上が”旧”、坂の下が”新”で、横浜の新旧の境界部分にあたるんですね。
霧笛橋を背にしてちどり坂を下っていくと、
すぐ眼下に望める風景と、
遠くを見たときに視界に入る風景から、それとなく事情が伝わって来ます。
こと”近代化された横浜の風景”という点では、港の見える丘公園の展望台エリアからの風景や、三渓園の松風閣(展望台)からの風景と同種の趣を持っています。
階段坂=ちどり坂自体はいたって普通の階段坂、強いて言うならビヤザケ通りと山手本通りの繋ぎとなっている階段坂に近い雰囲気を持っているようにも感じますが、
横浜山手のど真ん中を感じさせる件の坂道に対して、”切り立った崖に通された坂道”を感じさせるちどり坂は、階段坂の幅的には広く、海方面への見通しも良好です。
気持ち”新しさ”を感じさせるあたりも、ならではな感じでしょうか。
海方向の真正面にベイブリッジが見えていますが、ちどり坂上から見えるこの通りをまっすぐ進むと、新開橋を渡って本牧ふ頭のA突堤へ。
横浜ベイホール(ライブハウス。公式サイト)やユニオンハーバー(イベントスペース。公式サイト)、釣り船の乗船場(アイランドクルーズ。公式サイト)、ヨットハーバー(横浜クルージングクラブ。公式サイト)などがある一画へと進めます。
急ぎの用事がある時にお勧めできる道ではありませんが、「ここからも新山下方面へ向かうことが出来る」というルートですね。
新山下の町並み
階段を下りきってしまうと、付近からちどり坂の全景が望めます。
すぐ傍には、
桜の植樹と、
新山下公園という小さい公園があって、
山手の崖のすぐ下には、新しく作られたことを感じさせる小さい道が通されています。
まさにこの崖がそうなのかという点については定かではありませんが、港の見える丘公園と新山下地区の間にある崖のような壁面には、関東大震災発生時のがけ崩れによって作られた、という類のものがあるようです。
関東大震災による被害というと、地震発生と共に起きた火災の被害が言われることが多いですが(参考:震災地蔵尊)、やはりそのような爪痕も残されていたんですね。
横浜中心部の新興エリアを感じさせる新山下の町並みに対して、どこか時間の流れから取り残されているようにも見える崖の姿ですが、”ビール井戸“や”水屋敷跡“、”ブラフ溝“など今も山手町にぼちぼち散見される”その昔の姿”同様、多少なりともかつての面影を残している、ということなのかもしれません。