【街歩きと鎌倉史】山ノ内と北条得宗家、山内上杉氏(北鎌倉のお寺と鎌倉幕府)

未分類
この記事は約7分で読めます。

「山ノ内」と鎌倉・室町時代

鎌倉・山ノ内と北条氏、上杉氏

鎌倉市山ノ内は、JR北鎌倉駅を中心とする、山と海に囲まれた鎌倉の「山」側に該当する一帯です。

「海に面した鎌倉」の北部にあたるこの地には、鎌倉五山やその関連寺院が多く集まるだけでなく、後述する「北条得宗家」との間に極めて深い縁が宿っています(鎌倉五山について、参考:【街歩きと鎌倉史】鎌倉五山と五山・十刹、山号の歴史(五山のルーツと成立、開山・開基))。

寺院名 創建者・創建の由緒
建長寺 第5代執権・北条時頼の招きを受けた南宋の禅僧・蘭渓道隆が開山し、北条時頼が創建。鎌倉五山第一位
円覚寺 第8代執権・北条時宗が、二度の元寇による戦死者を敵味方なく弔うためとして創建。鎌倉五山第二位
浄智寺 第5代執権・北条時頼の三男であり、第8代執権・北条時宗の実弟である北条宗政を弔うため、宗政の夫人と、実子である第10代執権・北条師時(もろとき)が創建。鎌倉五山第四位
東慶寺 第8代執権・北条時宗の妻である覚山尼(かくざんに)が創建。「縁切寺」として有名。
明月院 鎌倉幕府の第五代執権・北条時頼が創建した最明寺が、時頼の実子である第8代執権・北条時宗によって禅興寺として再興された後、室町幕府の第15代関東管領・上杉憲方によって三たび再興された時の塔頭(たっちゅう)寺院。「明月院」は関東管領・上杉憲方の法名。

北条氏が権力を掌握する過程で生じた「山ノ内」との縁は、得宗家初代・北条義時(二代執権)がこの地を所領(私有地)としたことに始まりますが、やがて第五代執権北条時頼、第八代執権北条時宗の時代を中心として多くの史跡が遺されることになった「山ノ内」の変遷は、現在「アジサイ寺」として有名な明月院の由緒に象徴されます。

明月院は、時頼が建立した「最明寺」を前身とし、後に時宗が再興した「禅興寺」の塔頭(付属寺院)として始まったことから、現在の明月院内には最明寺を創設した時頼の墓所があります。

また、禅興寺を再興した時宗の墓所については、同じ北鎌倉の円覚寺内に位置しています。

その一方で、件の禅興寺の中興の祖とされる第15代関東管領・上杉憲方の墓所(供養塔)は、同じ鎌倉市内の江ノ電・極楽寺駅傍にあるのですが、このことは、一つのお寺の由緒に「権力者の推移」が刻まれていることを意味しています。

翻って、広く「山ノ内」を俯瞰した場合。

元は北条氏の牙城だったエリアに、室町幕府を創設した足利尊氏の邸宅跡、尊氏の没後長寿寺鎌倉観光公式サイト “長寿寺“)として創建された塔頭寺院も残されていますが、このことの意味するところは、本質的に「北条」「上杉」二氏が関わった明月院の由緒に等しい含みがあります。

長寿寺は、鎌倉公方・足利基氏によって父・尊氏の菩提を弔うために建立された塔頭寺院ですが、武家政権の始祖を鎌倉の地に刻んだ北条氏の栄華は、やがて関東管領として鎌倉を治めた山内上杉氏や、鎌倉公方・足利氏の世へと引き継がれていきました。

北条史と後北条氏

戦国時代に小田原を拠点とした「北条氏(後北条氏)」は、伊勢新九郎盛時(北条早雲)を祖とする別の家系であり、鎌倉時代の北条氏(得宗家)とは区別して考えられます。

後北条氏の初代は早雲ですが、実際に「北条氏」を名乗るのは、二代目に当たる北条氏綱の代からです。

この事情は、後北条氏の菩提寺にあたる早雲寺の墓石にも表れているのですが、余談として、二代目・氏綱が「北条」への改名を試みたのは、かつて鎌倉を支配した北条得宗家の威光を強く意識したため、とする説が有力です。

その根拠の一つとしてしばしば語られるのが、二代目以降の通字とおりじである「氏」の存在です。

名字として「北条」を継ぎ、名に「氏」を冠することによって、代々の当主が「北条氏〇」という形を継承していくことになる、すなわち北条得宗家というかつての正統な支配者の名を自らの家系に刻み込み、関東支配の正当性を示そうとした意図の表れがそこに汲み取れる、という解釈に繋がっているんですね。

執権職と北条得宗家

以下では、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝没後に幕府で実権を握った執権職と、その職を代々世襲し、北条家当主の家系として君臨した「北条得宗家」についてまとめました。

北条時政の台頭と失脚 -執権職の成立-

鎌倉幕府にとっては「神」に近しい立場にあった、初代将軍・源頼朝亡き後。

幕府内で最強の地位を得ることとなった最初の人物は、頼朝の義父にあたる北条時政でした。

1203年、北条時政は「13人の合議制」、及びその後の勢力争いの中から台頭し、政所別当(長官)に着任すると、やがて将軍を補佐する執権職を確立します。

翌1204年には権力の盤石化を狙い、幽閉していた先代将軍・源頼家を殺害。さらに当時の将軍であった源実朝をも廃し、後妻の「牧の方」と共謀して娘婿の平賀朝雅ともまさを新将軍に擁立しようと画策しますが(牧氏事件)、この策謀は、実子である政子(頼朝の未亡人である「尼将軍」)や義時らの反発に遭い失敗に終わります。

北条時政を柱とした「後妻一族vs先妻の実子」という、なんとも生臭い泥沼の争いに敗北した「後妻陣営」の時政は、執権職として権力を掌握した矢先の失態によって、失脚を余儀なくされました。

最終的に平賀朝雅は討たれて自害、時政は出家・追放処分となっていますが、時政の敗退によってというよりは政子の勝利によって、頼朝亡き後の幕政は一つの転機を迎えます。

大江広元と北条義時 -北条氏の世襲へ-

ここで幕政のキーパーソンとなるのが、「北条氏以外」の有力御家人、政所別当・大江広元です。

初代将軍・源頼朝の招聘に応じて京から下向した、公家出身の幕府高官(京下り官人)の一人ですね。

大江広元のように京から下向した官人=京下り官人は、概して法や政務に精通していましたが、問注所(裁判機構)初代執事となった三善康信なども、鎌倉幕府の法秩序を確立した重要な「京下り官人」の一人です。

広元自身は1184年に公文所の別当(長官)となり、1191年に公文所が「政所」へ改称された後も引き続き別当職を務めるなど、実務面から幕府を支えました。時政と同じく別当の地位にあった広元ですが、やがて「牧氏事件」で暴走することになる時政と対立する道は選ばず、賢明にも時政の次男である北条義時との連携を深めていきます。

義時の冷静な判断力に「幕府の安定」を託せると確信した広元の決断は、結果的に奏功しました。

1205年、北条義時二代執権に就任しますが、これは二人の間に強固な協力関係が築かれたことを理由として、時政失脚後の実権が円滑に継承されたことによっています。

得宗専制政治へ

得宗とくそうとは、初代執権・北条時政の実子である、二代執権・北条義時の嫡流を指す言葉です。

義時が「得宗家」の始祖となっているのは、義時の父にあたる時政が、前記した牧氏事件の顛末によって鎌倉から追放されているためですね。

義時の法名である「得宗」後に北条氏本家(義時の嫡流)を指すこととなったとされていますが、初代将軍・源頼朝の実力・カリスマによって成立した鎌倉幕府は、まずは五代執権・北条時頼の時代にかけて、北条得宗家を柱とした体制へと収れんが進みます。

二代執権・北条義時の長男にあたるのが三代執権の泰時であり、その泰時の孫にあたるのが五代執権の時頼です。

得宗家への権力集中

この時代、まずは北条家支流の名越なごえが、得宗家を相手取った執権継承争いである「宮騒動」(1246年)によって、鎌倉から追放されます。

名越なごし家(名越は、鎌倉市内の一部地区を表す旧地名)は、名越流北条氏=二代執権・北条義時の次男である北条朝時ともときを祖とする北条氏の一族で、「名越」を名乗ることになったのは、名越家初代・北条朝時「一族の祖である時政」の拠点を(1205年の時政失脚後に)引き継いだことによっています。

それゆえに、彼らは義時の長男・泰時の系統、すなわち得宗家に対しての強い対抗心を抱いていたのですが、時頼はまずはこの対抗心を駆逐すると、次いで、有力御家人の筆頭であった三浦泰村(『13人の合議制』メンバーである三浦義村の実子)一族を、得宗家との対立から勃発した「宝治合戦」(1247年)にて滅亡に追い込みました。

すなわち、執権就任早々の時頼が、一族内の対抗勢力幕府創設以来の宿老御家人を相次いで排除することに成功した形となるのですが、このことによって北条氏一門御内人みうちびとと呼ばれる得宗家臣の意思が、得宗私邸での秘密会議(のちの「寄合」のルーツ)を通じて幕府の方針を左右するようになります。

時頼時代に加速したこの権力集中こそが、三代泰時が創設した最高意思決定機関である「評定衆」の実権を事実上形骸化すると同時に、のちに確立される『得宗専制政治』の萌芽となりました。

得宗専制政治

のちに「寄合」と呼ばれることになる得宗私邸での秘密会議は、五代執権・北条時頼の時代には、あくまで実務遂行の迅速化を目的とした内々の対談に過ぎませんでした。

しかし、八代執権・北条時宗の時代。

二度にわたる「元寇」を乗り越える過程において、この対談の場が「寄合」として正式に確立されると、以降は幕府の最重要事項を決定する事実上の最高機関となりました。

時宗の早逝後、若くして九代執権となった北条貞時の時代には、得宗家の執事である内管領・平頼綱と、有力御家人の代表格であった安達泰盛との対立に端を発した政変・霜月騒動(1285年)を経て、得宗家の権力基盤はさらに強化されます。

霜月騒動を経て御内人の専権が強まったことから、幕府は「御家人の連合体」という建前を捨て、得宗家による絶対的な支配構造へとその姿を変えて行くことになったのですが、五代時頼から八代時宗の時代にかけて発展し、九代貞時の代に完成されたこの政治体制が、一般に「得宗専制政治」と呼ばれます。

タイトルとURLをコピーしました