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【街歩きと横浜史】横浜市歌の制定(横浜開港50周年事業)
記念事業と横浜市歌
about 横浜市歌
現在も横浜市民になじみの深い”横浜市歌”(横浜市公式サイト “横浜市歌について“)は、1909年=明治42年7月1日に行われた開港50周年記念祝祭にて発表されました。
作詞は森林太郎(鴎外)、作曲は南能衛(よしえ)です。
同じく開港50周年の節目が生み出した”開港記念横浜開館“(現・横浜市開港記念会館。横浜市公式サイト)共々、横浜市及び市民にとっての”レガシー”の一つにあたります。
市歌の制作と普及
市歌の制作
横浜市歌制作は作曲家個人への依頼ではなく、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)への依頼という形で始まります。横浜市歌の制作では、先に曲が作られ、あとからその曲に詞を乗せるという形が取られたようですが、”作曲”依頼を受けたのは、当時27歳で東京音楽学校の助教授を務めていた南能衛(よしえ)でした。
東京音楽学校に依頼された市歌の作曲を南が引き受け、その南が(市長の代理人から依頼を受けた)陸軍軍医・森林太郎を東京音楽学校へ招くことによって、市歌完成へと向かっていきます。
「横浜市歌の譜を見て、直ちに塡詞」した(横浜市公式サイトより引用)という鴎外独自の作詞法によって、曲だけであった横浜市歌に詞が載せられました。
鴎外・森林太郎
横浜市歌が作られた時期は、陸軍軍医として日露戦争に従軍後、陸軍軍医総監・陸軍省医務局長を務めるなど、帝国陸軍の軍医としてトップにあった森林太郎が、文筆家・森鴎外としての活動に傾倒していった時期に当たります。
市歌のお披露目と同年(1909年=明治42年)の著作には、鴎外の代表作の一つである『ヰタ・セクスアリス』がありますが、既に当時の社会的には”大御所”だった人物が従来とは別の活動において名を成そうとしていた時期、前記したように、鴎外・森林太郎への作詞依頼は横浜市長の代理人経由で行われました。
市歌を作曲した南の招きを受けた鴎外は東京音楽学校へと赴き、既に完成していた曲に詞を乗せるという作業を通じて、横浜市歌を完成させます。
市歌の製作費と普及
市歌の制作そのものには、総額で472円80銭かかっています。
明治40年代の1万円は、現在の1088万円にあたる(参考:レファレンス協同データベース “明治時代のお金を現在の価値に換算していくらになるのか知りたい。“)という基準に沿うのであれば、単純計算して当時の1088倍かかるということで、約51万円かかる計算となります。
楽曲制作をその道のビッグネームに依頼したわけではない(南は若手音楽家であり、作家としての鴎外は駆け出しの時期に当たります)と考えると、この点からもかなり力が入れられていることが分かります(現在、普通に制作会社に楽曲制作を依頼した場合、約50万円かかる=最高額に近い費用となるようです)が、1966年=昭和41年には楽曲が改訂されている(”より歌いやすいものを”ということが狙われたようです)他、当初より普及にも力が入れられたようで、式典や学校行事など、公の場で歌われる機会も多かったようです。
余談としては、2017年=平成29年以降、毎年第1回市会定例会の開会に先立って、横浜市会の本会議場において市歌斉唱が行われている他、DeNA以降のベイスターズ戦でも、自軍選手がホームランを打った際や勝利時には市歌の二番、四死球出塁時には市歌の一番が歌われます。
参考:横浜市公式サイト “ブックリスト「読んで知る横浜市歌」“