【街歩きと横浜史】鉄道開通と鉄道創業の地

みなとみらいと新高島

この記事を読むのに必要な時間は約 5 分51秒です。

【街歩きと横浜史】鉄道開通と鉄道創業の地

日本初の鉄道開通

馬車・人力車から鉄道へ

鉄道開通以前の横浜と江戸の間では、海路を和船・蒸気船で結ぶ定期航路や、陸路の開拓(横浜道の開通)に伴う形で台頭した馬車・人力車が主要な交通手段でした。

馬車・人力車の台頭によって、幕末から明治の改元直後にかけての主役だった定期船航路はその規模が縮小し、海路・陸路の間に”移動手段の主役の入れ替わり”が起こるのですが、その馬車と人力車にしても、ほどなく廃れることになります。

周知のように、開港場・横浜付近に作られた鉄道駅を終点とする形で、東京との間が鉄道で結ばれることになったためですね。

ちなみに横浜道の開通が1860年、現在の馬車道にあった乗合馬車の発着場開業に象徴される”馬車の道”が整備されたのが1869年で、鉄道の開通は1872年です。

海上(東京湾上)の交通手段、臨海エリアの経済の発展は、幕末の動きに関してはペリーの来航(1853年=嘉永6年)が契機となっていますが、開国後20年を待たずして、交通手段に関しては早くも”決定打”が出て来ることとなりました。

 

日本初の鉄道開通へ

ということで明治5年(1872年)、横浜・新橋間に日本初の鉄道が敷設されます。

なのですが「ここがあらゆる意味で最短だった」というよりはむしろ逆、鉄道敷設計画でもめた後の開通だったようです。全てがスパッと決まっていれば幕末の開通もあり得たのだという、どちらかというと遅れた結果の開通だったんですね。

その間の京浜間の足を担ってくれていたのが和船や蒸気船、あるいは馬車や人力車だったのであって、それぞれの交通手段の発展は「青天のへきれき」的な世代交代に直面したわけではなく、鉄道の開通を待ちながらのものだったわけです。

ところで、「近代日本が鉄道敷設でもめた」というと、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約で取り決めた、東清鉄道の南満州支線(=南満州鉄道)及び付属事業の独占権と、日露戦争後に南満州鉄道の日米共同経営を取り決めた桂・ハリマン協定とが競合した結果、前者(ポーツマス条約)を重んじ後者(桂・ハリマン協定)を棄却したという一件が有名ですが、実は本質的に同種の話が幕末の日米間で持ち上がっていました。

幕末(慶応年間)以来、幕府には列強の外交官より鉄道敷設計画が幾つも持ち寄られたようで、要は「いつ、どの計画を裁可するか」(ただ敷設すればいいのであれば、いつでもできる)という状態だったらしいのですが、残念ながら幕府によって最初に裁可された鉄道敷設計画、アメリカ公使館の書記官アントン・L・C・ポートマンが提出したプランは、以下の二つの理由から最終的に却下されています。

一つは幕府が与えた許可が最後の将軍・徳川慶喜の大政奉還後のことであった点(契約自体が無効であるとする解釈)、もう一つは鉄道の敷設・経営権をアメリカ側が握ることになっていた点(日本の新政府としてはその希望条件を飲めないため、幕府が与えた許可を追認出来ないとする判断)です。

奇しくも(?)、桂・ハリマン協定の一方当事者であったエドワード・ヘンリー・ハリマンはアメリカの実業家であり、最初の鉄道プランを裁可されたアントン・ポートマンも同じくアメリカの外交官だったわけですが、当時の日本にとって「あなたの国の鉄道経営に我々アメリカを参画させてください」はどうあっても認めがたい、譲れない一線だったんですね。

ということで、最終的には日米間の外交問題にまで発展したという”ポートマン・プラン”を巡る交渉は結局決裂し、鉄道敷設は一度お流れとなりました。

ここで出て来たのが、当時の世界最強国家・イギリスの土木技術者であったR・H・ブラントンです。

そもそも彼が提出した意見書が参考にされた結果、前記したポートマン・プランは廃案となったのですが、その後ブラントンの意見書の説く方針、およびイギリスの助力を柱とする形で、日本政府が建設する鉄道計画が実行に移されました。

余談として、現在は横浜山手の外国人墓地に眠られている、日本政府に雇われた”助っ人外人”であるエドモンド・モレルさんも、ブラントンの提唱したプランに沿って英国から招聘された鉄道技術者でした。

このころから横浜に在住する日本人商人の間でも、鉄道敷設を希望する声が目立つようになっていったことも追い風となる形で、漸く京浜間の鉄道敷設が現実のものとなります。

鉄道工事は1870年4月25日よりはじまり、その約2年後の1872年6月12日には横浜・品川間が、同年10月14日には新橋・品川間が開通し、横浜・新橋間が全線開業する運びとなりました。

(参考:西川武臣『横浜開港と交通の近代化』日本経済評論社、2004年11月25日)

 

初代横浜駅前(現・JR桜木町駅前)界隈

現在、桜木町駅の南改札一帯とその付近には、様々な”鉄道創業”関係の碑や記念物等が置かれ、案内展示がなされています。

開業当時の横浜駅と鉄道

駅前広場にかかっている歩道橋横では、

明治20年の横浜駅(現・桜木町駅)前の様子が、カラーのパネルとなって掲げられています。

写真中央に位置する噴水塔ですが、

日本で初めて横浜に近代水道が引かれたことを記念し、当時の横浜駅前に設置されました。

説明書きには「横浜水道記念館に保存されています」とあるのですが、残念ながらこの9月で水道記念館は全面閉館してしまったようです(横浜市公式サイト)。

“本物”の行方が気になるところですね。

ちなみにこの噴水には、1987年(昭和62年)、近代水道設置100周年を記念して作られた二基のレプリカがあって、うち一基が港の見える丘公園内・山手111番館横に設置されています(もう一基は当時の横浜の水源であった津久井郡津久井町に寄贈されたようです)。

 

周辺の鉄道史跡と改札前展示

JR桜木町駅の南改札を出てすぐのところには、

初代横浜駅の様子や、

鉄道敷設計画、開業式典の様子、

旅客業の他に新たに始まった貨物運送についてなど、かつての様子が様々展示されていますが、

史跡・展示は桜木町駅周辺のみにとどまらず、例えば汽車道横浜港駅跡など、もう少し広い範囲、およそみなとみらい線沿線の全線に散っていることもわかります。

昔はここ(改札を出てすぐのところ)に、

日本初の鉄道敷設に多大な尽力をした英国人鉄道技術者である、

エドモンド・モレルさんのレリーフがあったのですが、現在は改札から少々離れたところに移動されました(後日別記事で掲載します)。

 

“鉄道創業の地”記念碑

JR桜木町駅の南改札西口出口から少し歩いたところに、

“鉄道創業の地”記念碑があります。

ここに初代横浜駅があったということを記念する碑ですが、

三角柱の形で建てられた三面の鉄板には、それぞれ

当時の時刻表と運賃表、

鉄道創業を記念する碑文と、

創業当時の横浜駅の様子が刻まれています。

すぐ傍に植樹されているのが、

毎年春に一帯を彩る、”モレルの桜”です。

モレルの桜から少し歩いたところには、

汽車ポッポの桜があります。

こちらも、日本初の鉄道開通を記念しての植樹です(2012年3月植樹)。

 

東横浜駅跡/震災復興後の桜木町の碑

桜木町駅南改札西口方面には、出てすぐのところに駅前広場がありますが、その一角に、

旧横浜駅から分離した貨物駅である、東横浜駅跡の碑があります。

旧横浜駅、初代横浜駅というと旅客運送の華やかさの方にのみ目が行きがちですが、その陰にあったもう一つの世界が、碑文に刻まれています。

その右隣にあるのは、

“震災復興後の桜木町の碑”及び”開港の道(道中赤レンガ倉庫などを経由して港の見える丘公園まで向かう、海沿いの街歩きコースです)”スタート地点の標です。

 

アクセス(鉄道創業の地)

タイトルとURLをコピーしました