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【街歩きと横浜史】近代横浜の始まり -開港地での共存-

街歩きと横浜史

この記事を読むのに必要な時間は約 14 分27秒です。

開港地での共存

幕末の世相と開港場の治安維持

開国・開港によって近代の一大転機を迎えた横浜村では、“開港地”としての発展が比較的順調に進んでいきました。

とはいえ、横浜開港当時の日本社会では開国・開港に強硬に反対する勢力も未だ勢いを持っていたため、外国人居留民の身辺保護、および外国人居留地の治安維持が、時の幕府にとって喫緊の問題となります。

参考:吉田橋関門跡

そこで開港の翌年にあたる1860年(万延元年)、横浜では“開港地”(現在、象の鼻パーク山下公園等がある一帯です)とその付近へのルートを掘割で遮断し、掘割の上に橋を架け、橋の袂に関門を作るという方法が取られることとなりました。

残念ながら”掘割”の造成が全ての問題を解決することはなかったのですが、ともあれ、開国に続く開港を契機として”横浜”一帯は新たなスタートの時を迎えます。

堀川と関門

上地図上部の楕円+斜線の部分が”ざっくり捉えた、いわゆる関内エリア“、その右下で赤い線を引いた部分は、幕末に掘割が掘られて現在の”堀川”となった部分です。

堀川は中村川の先で、現在の西の橋から山下橋までの”海(東京湾)とのつなぎ”区間にあたります。

反対に、西の橋から地図左端の蒔田まいた公園まで伸びた青い線は、掘割と大岡川をつなぐ形に延ばされた中村川(現在もJR石川町駅付近を流れている川です)、蒔田公園から地図右側上部に向かって伸びている青い線は大岡川です。

堀川の(西の橋より)先が中村川となって大岡川まで伸びている、蒔田公園付近ではその中村川と大岡川が合流している、という形ですね。

堀川、中村川、大岡川という三本の”川”と東京湾によって、関内を含む”旧・吉田新田エリア”(※)は陸から隔離される形となったのですが、ただ隔離しているだけでは往来が不便だということで、万延元年=1860年、掘割の掘削(堀川造成)と時を同じくして初代の谷戸橋と前田橋が架橋され、二橋が架けられた翌年には初代の西の橋が架橋されます。

堀の上に架けられた橋で結ばれた関内・関外エリアは、幕末期には吉田橋同様、谷戸橋前田橋西の橋の袂にそれぞれ用意された関門にて警備されました(全ての関所は明治4年=1871年に撤廃されます)。

※ 元々は入江となっていた地が江戸時代に新田として開拓された後、開拓を実行した石材商・吉田勘兵衛の名字を譲り受ける形で”吉田新田”と命名された一帯のことで、上地図中央の”釣り鐘”部分全面を指し示しています。

英仏軍の山手駐屯、山手公園、彼我公園(横浜公園)の誕生

“地所規則”と山手居留地のはじまり

掘割の内側=関内地区の開港場傍に作られた山下居留地に続いて、新しい居留地である山手居留地が外国人居留民に開放されたのは、開港2年後の1861年(万延2年)のことです。

山手居留地は堀川の南側に位置する、現在の山手町エリアに作られることとなった居留地ですね。

1860年に列強間で調印された”第一回地所規則”で望まれていた地が1861年に幕府側に承認され、その後1863年に”横浜居留地覚書(第二回地所規則)”として幕府と四国(英仏米蘭)代表の間で承認されたことによって、正式に開拓が促進されることとなりました。

時あたかも幕末の乱世であり、物騒なことに外国人殺傷事件が相次いで起こっていた時代です。

英仏米蘭四国による一方的な提唱が形になったものだったという色が濃かった”覚書”=地所規則にしても、状況が状況なだけに幕府としても受け入れざるを得ないという立場に立たされていました。

参考:近代横浜の始まり -開港場と周辺エリア-

乱世と開港地、横浜での英仏軍

山手への外国人居留民の受け入れが決まった翌年(1862年=文久二年)には、薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件である生麦事件が発生しますが、このことを契機として、自国の居留民保護の名目の下、横浜に英仏軍が上陸し、以降常駐することとなりました。

“生麦事件”発生の翌年(1863年=文久三年)には、過激派志士の巣窟となっていた長州藩尊攘派による”攘夷”、関門海峡を通過する外国船への砲撃が行われますが、翌1864年(文久四年・元治元年)には長州藩への報復である四国(英仏米蘭)艦隊による下関砲撃事件(下関戦争)が発生し、長州藩の全砲台が四国の連合軍によって占拠されます。

そこはやはり遠路はるばる日本までの侵略を進めて来たイケイケドンドンの列強でしたということで、ただただすべてを日本側任せということでは全くなかったんですね。

横浜での仏軍は現・谷戸橋元町中華街駅・元町口傍)付近に駐屯して現在のフランス山地区一帯を占拠し、英軍は現在の港の見える丘公園の”丘”部分(現在、横浜市イギリス館イングリッシュ・ローズの庭香りの庭展望台等々があるエリアです)に兵舎を作って駐屯しました。

英軍と仏軍は、身に付けている軍服の色から、それぞれ赤隊(英軍)、青隊(仏軍)と呼ばれたようですが、現在ビヤザケ通りから外国人墓地前にかけて通されている陣屋坂に英軍が陣取っていたのはこの時期の出来事です。

国内での動乱は、徳川幕府亡き後も戊辰戦争、士族の反乱、自由民権運動と言った形でまだまだ継続していくことになるのですが、開港地・横浜山手の外国人居留地においては、新政権成立によって”文明開化”が奨励されたことから街の発展が軌道に乗り始めます。

明治8年には外国人居留地の整備の進展に伴って英仏両軍が居留地から撤退し、明治政府が主導した居留地の整備も明治20年代には完了すると、同32年には地域一帯が現在の町名である”山手町”に改称され、地域一帯に設定されていた(英仏が有する)永代借地権も昭和17年には消滅するに至りました。

山手公園の誕生と、日本でのテニスの発祥

過激な勢力によるテロ・人斬りが横行していた幕末期。

自国民の安全保護や過激派への報復のためとして常に軍隊が臨戦態勢にあったという、中々に激烈な毎日の生活の中、やがて居留民たちは開港地での毎日の生活に”癒しの場”を求めることとなります。

ということで、開国から11年後の1870年(明治3年)、妙香寺の敷地の一部を借地する形で、外国人側に”パブリックガーデン”、日本人側に”山手公園”と呼ばれた外国人専用公園が誕生します。

外国人居留民の出費によって作られた、日本初の洋式公園(=洋式の公共庭園)ですね。

山手公園開園8年後の1878年(明治11年)には、居留外国人有志ではなく私設団体”レディース・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブ”(現・横浜インターナショナルテニスコミュニティ –公式サイト-)に借地権者が移ったことを契機として、公園にてテニスクラブが創設されると同時にテニスのクラブハウス、さらには日本初のテニスコートが作られ、山手公園は日本で初めてテニスがプレイされた公園となりました。

公園内には、国内テニス発祥の地であることを記念した”横浜山手テニス発祥記念館“が設置されています。

その後関東大震災後の1929年(昭和4年)より一般開放され、日本人も使用できる公園となりますが、近年では、2004年3月には国の名勝に指定され、2009年2月には横浜公園、根岸森林公園と共に”旧居留地を源として各地に普及した近代娯楽産業発展の歩みを物語る”近代化産業遺産の認定(近代化産業遺産群・続33(ストーリー19、P66~68)を受けました。

参考:文化遺産オンライン “山手公園“、文化庁 “国指定文化財等データベース・山手公園“、横浜インターナショナルテニスコミュニティ公式サイト “YITC140年の歩み

港崎遊郭と彼我公園

港崎遊郭の設置

話しは少々遡ることになるのですが、開港直後の横浜では、開港にあたって物議を醸した”港町・横浜”の発展促進を狙いとして、江戸の吉原を模した港崎みよざき遊郭という遊郭が作られました。

山下居留地傍、現在横浜公園が位置するあたりですね。

遊郭とは花魁に象徴される近世成人男性の夜の社交場のことですが、当時はそれを受け入れていた社会があったのだということで、本質的には前記した山手公園が作られた事情と同種の設置動機があったのでしょう。

実際「近場に遊郭があれば、外国人居留民もいついてくれるだろう」ということが日本側の狙いとしたところであったと同時に、遊郭の設置は居留民側からの要望でもあったようです。

つまりは双方の合意の下で新しい港町に作られたのが港崎遊郭だったのだということで、現在横浜公園内にある彼我庭園には、港崎遊郭最大の妓楼ぎろう(遊女のお店)だった”岩亀楼”の石灯籠が置かれていますが、在りし日の一帯には遊郭特有の華もあったようです。

時あたかも幕末の開港期(19世紀半ば頃)、一方(山手公園設置)がデイタイムの癒しであれば、他方(港崎遊郭設置)は日没後の癒しであったということですね。

少々余談ですが、いわゆる”風俗”的なものにとどまらず、双方に文化的な素養や社会的な格式を意識した振る舞いが求められたというあたりが、現在のその系統の業界と”遊郭”の間にある大きな相違点です。

花魁や遊女に現代では考えられない位重い事情がある(貧しい家から身売りされてくるケースが大半だったようで、死後に親族が遺体を引き取らないようなケースも常態化していたようです)、あるいは劣悪な労働環境がある(居住移転の自由が制限された上に待遇も悪く、時に性病の温床となっていたことはしばしば指摘されます)といった反面、利用客である男性側には様々な粋や楽しみもあり、究極的にはそこで見染めた遊女や花魁を遊郭から引き取る(身請けと呼ばれる制度を利用したもので、客側が遊女、あるいは花魁の”借金”を払ってしまえば問題ないという理屈です)こともできたようです。

”身請け”にあたってはべらぼうな額の補償金を伴うこととなったのであろうあたり想像に難くないところですが、諸々の事情を含めて捉えるなら、当時の世の中では当時の世の中の理屈が、どこかに救いを設けようとする形で回っていたのでしょう。

現在では実現不可能であるという、今時の”風俗”とは何もかもが一線を画している世界のお話ですね。

幕末の大火と、日本大通り・彼我公園の設置

急造の波止場と日本人街(海側に向かって左側)、外国人居留地(同右側)、それらを取り仕切る神奈川運上所という形で実務が回っていた最初期の横浜港には遊郭も置かれていたのですが、開港7年後の1866年(慶応2年)、俗に”豚屋火事”(火元となった豚肉料理屋・豚屋鉄五郎方の名からの命名です)と呼ばれる大火事が発生したことによって、当時の関内地区の2/3以上が消失してしまいます。

“豚屋火事”の生々しい証言記録は、日本側のみでなく、例えばイギリス人外交官であるアーネスト・サトウの証言をはじめ、外国人居留民側の記録にもその様子が遺されているのですが、港崎遊郭もまた、幕末の大火・豚屋火事によって消失してしまいました。

悲惨だったのは、この港崎遊郭の一帯だけで400人以上の遊女が焼死してしまったということでしょう。

港崎遊郭がモデルとした吉原の遊郭では、遊女の逃亡防止のため、遊郭を取り囲むように”お歯黒どぶ”と呼ばれた堀が張り巡らされていたのですが、港崎遊郭周辺の古地図(Wikipediaより)を見ると、やはり吉原同様に周辺が堀で囲まれているのがわかります。

このことが悲惨な災害の原因になってしまった一面もやはりあったのかもしれませんが、ともあれ、行政・商業の中心地で発生した大火災からの復興は、万人にとっての急務となりました。

その結果、まずは外国人居留地と日本人街の間に「延焼防止エリアを設けよう」との目的の元、1870年(明治3年)に日本大通りが作られます。中央車道12メートル、その左に3メートルの歩道、右に9メートルの植樹帯を持つという、当時の日本では最大級の幅員を持つ日本大通りは”日本の近代街路の発祥”となりました。

続いて1876年(明治9年)には、日本人・外国人共用の”彼我公園”が作られました。

彼我公園の言う彼我とは”彼”=外国人と”我”=日本人の意で、そのネーミングには「外国人と日本人共用の公園」といった意味が含まれていますが、設立趣旨的に、山手の居留地に居留民専用として作られた山手公園とは対照的な開放感が特徴です。

“彼”と”我”の共用の公園である彼我公園内には、居留民同士がスポーツ(クリケット、ラグビー、サッカー等々)を楽しむ場として、クリケット場が作られました。

英国発祥のクリケットは日本社会にはなじみの薄いスポーツですが、競技人口は世界二位、オーストラリア、インド、南アフリカ、西インド諸島などの英連邦諸国で主に親しまれているようです(参考:日本クリケット協会 “クリケットとは“)。

良く知られているのは野球(19世紀、アメリカ発祥です)との類似性で、しばしば「野球の原型がクリケットだ」などとも言われますが、クリケットの起源は13世紀にあるとのことで、同じイングランド発祥のサッカーやラグビー(共に18世紀に起源があります)に比べても圧倒的に長い歴史を誇ります。

クリケット場として造られたグラウンドでは様々なスポーツが楽しまれますが、特に外国人居留民のスポーツクラブとして発足したYC&AC(YC&AC公式サイト “A HISTORY OF YOKOHAMA COUNTRY & ATHLETIC CLUB“)との間では、日本人学生との間でいくつかの記念すべき交流試合(日本初の国際試合)が行われました。

利用者は当初外国人居留民に偏重していたようですが、日本人側の利用も徐々に増えていき、1909年(明治42年)には”彼我公園”が”横浜公園”となりました。

横浜中華街の黎明

現在、みなとみらい線沿線の一大観光スポットとなっている横浜中華街も、開港とほぼ同時に黎明期を迎えます。

横浜開港時、”安政の五か国条約“締結相手国の居留民の中国人通訳(厳密には”買弁ばいべん”と呼ばれた仲介商人)たちや、欧米人の下で下働きをするため来日していた中国人たちは、列強の居留民同様に、日本国内における生活拠点=居留地を必要とします。

列強にとっての本命条約であった”修好通商条約”が締結されたことによって、中国人居留民たちもまた、日本国内に外交・交易を推進するための生活拠点を必要としたためですね。

現在の山下町山手町にイギリス・フランスをはじめとする海外居留民の交易拠点や居留地が作られた頃、当時の中国人たちは、旧・吉田新田内部(現在の山下町エリア)に作られた開墾地である横浜新田を利用する形で、居留地を形成しはじめました。

この中国人居留地こそが、現在日本三大中華街の一つにして日本最大の中華街である、横浜中華街公式サイト)の原点となった街です。

旧・中国人居留地と”横浜の南京町”

討幕・新政府成立への流れ

以下は、横浜史というよりは日本史がメインとなる話題です。

公武合体派と尊王攘夷派の対立

居留地に駐屯する英軍・仏軍が日本の政情に神経をとがらせていた頃、当時の内政の中枢(幕府・朝廷)では、”公武合体派”と”尊王攘夷派”(以下、”尊攘派”として進めます)の対立が先鋭化しました。

前者の中心は幕府の他、薩摩藩の島津久光や土佐藩の山内容堂、さらにはいわゆる”一会桑”(一橋徳川家、会津藩、桑名藩)など雄藩中心、後者の中心は長州藩です。

こと開国や外国人居留を軸として見た場合、体制に属する前者(公武合体派)が最終的に開国和親を是とした時、後者(尊攘派)は前者とは真逆の主張となる、条約破棄・鎖国継続・外国人排斥を是としますが、双方は”開国を是とするか否とするか”という核心部分で正反対の結論を持っていたことから、当時の時勢とも相まって、やがてその対立自体が武力衝突を伴うものへと変貌しました。

参考:会津若松・鶴ヶ城

八月十八日の政変・蛤御門の変

薩摩藩政をリードする薩摩の国父・島津久光が”公武合体”(討幕による新政府樹立ではなく、幕府・雄藩と朝廷の連立体制)を主張していた薩摩藩では、藩論を統一するため、生麦事件発生と同年(1862年=文久二年)に寺田屋事件によって尊攘派を粛正し、翌年(1863年=文久三年。薩英戦争発生と同年です)には会津藩と協同して”八月十八日の政変”を起こすことによって、京から尊攘過激派・長州藩とその一派を追放します。

この政変は、尊攘派の公家を抱き込んで”朝廷の乗っ取り”を図った長州過激派の影響力を京から一掃するために実行された政変ですが、翌1864年(元治元年)には、幕府の京都守護職(松平容保・会津藩)指揮下にある新選組が池田屋事件によって長州藩・土佐藩等の尊攘派活動家を襲撃・粛清すると、前記”八月十八日の政変”で京を追われた長州藩の過激派が、”失地回復”を狙って再び上京します。

しかし長州過激派は京において会津藩、桑名藩、薩摩藩の兵と激戦を繰り広げた末、再び敗北し、またしても京を追われる身となりました(禁門の変=蛤御門の変)。

第一次・第二次長州征伐

同年(1864年=元治元年)、尊攘過激派せん滅を狙う幕府は長州征伐を実施し、長州藩を恭順させることに成功するのですが(第一次長州征伐の実施)、マクロな視点から事態の表層を追うのであれば摩訶不思議なことに、この長州征伐を境として幕末の動乱の潮目が逆転します。

とどめを刺されたはずの長州藩が息を吹き返し、公武合体を推進していたはずの薩摩藩が幕府に反旗を翻すことによって、公武合体から武力討幕へと形勢が一気に変わってしまうんですね。

良く知られているように、ポイントは両藩の下級武士の動向にありました。

一度は幕府に対して恭順の姿勢を見せた長州藩の藩論は、開国・討幕を主張する勢力となった”かつての尊攘派”によってリードされ転回すると、再び幕府に対峙する姿勢を鮮明にします。これを受けた幕府は二度目の長州征伐(1865年=元治二年、慶応元年)を計画しますが(第二次長州征伐)、”英国のバックアップを受けた薩摩藩”と繋がる長州藩を前にして、あえなく計画倒れに終わります。

公議政体論から武力討幕へ

第二次長州征伐が失敗に終わったのは、”国父”の島津久光が主張する藩論である公議政体論(雄藩による連合政権樹立)を向こうに回した西郷隆盛が討幕計画を進め、イギリス経由の武器密輸を通じて長州藩の味方に回ったためですが、1866年=慶応二年、薩長両藩の間に同盟関係が成立すると”武力討幕”は現実のものとなり、公議政体論を背景とした公武合体は力づくで退けられることとなりました。

その結果、1867年=慶応三年には王政復古の大号令によって幕府の廃止等が、小御所会議によって新政権での徳川慶喜排除がそれぞれ決められると、翌1868年=明治元年には江戸城が無血開城されるなど、藩閥政府主導のいわゆる”明治維新”が進んでいきます(参考:戊辰戦争)。

当時の日本にとって果して武力討幕が正解だったのか、それとも公議政体による公武合体政治が正解だったのか。かれこれ150年が経過した現在でも熾烈な意見対立が存在するところではありますが、とにもかくにも開国後約10年の時を経て、時の日本は新たな船出の時を迎えることとなりました。

参考:【街歩きと横浜史】横浜毎日新聞が伝える、創刊当時の世相と鉄道開通

ほか、列強との縁 -アメリカ山公園とイタリア山庭園-

“山手居留地”以降の”列強との縁”が由来となった施設には、かつてアメリカ公使館の書記官の居住地となった時期を持つことからその名がついたアメリカ山公園や、明治13年(=1880年)から明治19年(=1886年)まで、イタリア領事館が置かれていたことに命名の由来があるというイタリア山庭園などがあります。

余談として、かつて横浜山手が外国人居留地だった時代にこの地に住んでいたアメリカ公使館の書記官とは、日本初の鉄道敷設にあたり、イギリスに先んじて日本に鉄道敷設計画を提案したアントン・L・C・ポートマンです(ポートマンのプランにはいくつかの問題点が指摘されたため、残念ながら廃案となりました)。

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