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【街歩きと横浜史】その昔のみなと横浜(日本大通り駅・馬車道駅間、本町通り沿い)

みなと横浜はじまりの地

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【街歩きと横浜史】その昔のみなと横浜(日本大通り駅・馬車道駅間、本町通り沿い)

かつての本町通り

今回は、みなとみらい線の日本大通り駅馬車道駅間の大通りの一つである、本町通り沿いの史跡を三つほど紹介します。

いずれも、かつての横浜港在りし日の開港場一帯を彷彿とさせるような史跡であることに違いはなく、現在も銀行街の面影を残す一帯にあって、付近の風景に溶け込むように存在しています。

 

開通合名会社の煉瓦遺構

みなと大通りを歩いていると、あるいはみなとみらい線・日本大通り駅下車後に地上に降り立ってみなと大通り方向に目線を向けると、丁度県庁のすぐ隣の区画にある、特徴的なレンガ造りの壁面が視界に入ります。

どうやらレンガ造りらしいということが遠目にも確認できる壁面は、「周辺風景に溶け込んでいる」というよりは、「周辺風景が、年季の入った壁にあわせてその場の空気を作っている」という感じ、ひと目で年代物を思わせる中々に存在感の強烈な”レンガ壁”です。

壁面には”かつての姿”と思しきパネル写真も埋め込まれていますが、”レンガ壁”は関東大震災前までこの地にあったとされる”開通合名会社”の遺構です。

開通合名会社は、明治10年(1877年)、元大蔵省(現・財務省)の役人さんが民間に下って興したという、横浜港から陸揚げされる貨物の通関・発送取扱業務を請け負う商社です。みなと大通り沿い神奈川県庁のすぐ隣、かつ横浜税関傍に位置し、どちらかというとお役所寄りの仕事を請け負っていたんですね。

山下公園付近や日本大通り界隈、さらには新港ふ頭とその周辺地区を中心としてにぎわっていたというかつての横浜港の姿(参考:日本大通り地区の歴史)、関東大震災の災害規模、双方を後世に伝える遺構となっていますが、壁一枚となりの空間は、現在時間貸しの駐車場として機能しています。

こういうギャップも、横浜中心部ではしばしば見かける類のものではあります。

今昔の風情の相違がそこはかとなく伝わってくるあたり、これはこれで今の横浜らしい一コマかもしれません。

 

旧横浜銀行集会所

元町中華街駅前(谷戸橋)付近から馬車道駅前付近にかけて伸びているのが、沿線の目抜き通りである本町通りです。

本町通りの日本大通り駅・馬車道駅間の一帯は、現在も横浜中心部の銀行街として機能していますが、まずは商取引の現場として活性化し、そこに歩みを合わせる形で金融取引が活発となって行った一帯で、今もなお多くの銀行が集まるエリアとなっています。

そんな一角にある旧横浜銀行集会所には、現在、横浜銀行協会が入居しています。

協会名は”横浜銀行の協会”であるということではなく、”横浜に本店または支店を置く銀行が加盟する協会”であることを意味していますが(参考:横浜銀行協会定款)、”適正な消費者取引の推進”等を目的として設立された全国銀行協会(参考:全国銀行協会公式サイト全銀協の活動“)の中の特別会員が”横浜銀行協会”である、という位置づけです(参考:同 “全銀協の会員一覧“)。

ところで、前記した開通合名会社が創業した明治10年(1877年)は、日本の近代史の中では、西南戦争の終結によっていわゆる明治維新が一段落し、次には議会制(代議制)民主主義を国政の柱に据えるべく新しい時代へと進んでいくことになったという、大きな節目の時期にあたります。

大局的にときの日本が何を発奮材料とし、どこを目指していたのかといえば、海外から流入する新しい文明に刺激を受けつつ、西欧列強に追いつけ追い越せという至上命題を具体化するため、国を挙げての富国強兵政策に向かっていました。

そんな時勢下で(拗れた内政を主要因として)発生した西南戦争は、紙幣の大量発行によるインフレと、国際収支の悪化をもたらします。

貨幣を戦費調達のため乱発してしまった結果、限度を超えて市井に出回った貨幣の価値が暴落し、紙くずとなってしまったんですね。

国際収支の悪化は、大規模な内戦の当事国となったが故のことでしょう。

ということで、世は”松方財政”といわれる、大蔵卿・松方正義によるインフレ抑制=デフレ誘導政策が(図らずも)推進されざるを得ない時代だったのですが、国内で最大規模の”海外文明流入口”となっていた横浜港界隈の明治10年代は、右肩上がりの途上にあった時期にあたります。

「攘夷が活発だった国内にあって、外国人の居留が進んでいった」幕末期同様、良くも悪くも日本史一般の動きに比べて急進的な部分があるのがこの時期の横浜史の特徴なのですが、既に明治5年に創設されている金穀相場会所、明治6年に創設されている生糸商人の同業組合”生糸改会社”などに続き、明治12年にはお茶を扱う商人の協同組合や横浜洋銀取引所が、翌明治13年には前記”横浜洋銀取引所”が改組された横浜株式取引所の他、横浜正金銀行、さらには後の横浜商業会議所、横浜商工会議所の前身である横浜商法会議所が設立されます。

やがて横浜から流入した海外文明が、新規に開通した鉄道経由で東京、例えば銀座に流れ込んでいく流れなども出来上がっていくのですが(参考:銀座インフォメーションマネジメントヒストリー“)、横浜での金融取引そのものについても、より規模が拡大します。

明治20年代以降、商取引や金融取引がさらに活発化すると、1895年(明治28年)には横浜商業会議所が設立され、1928年(昭和3年)には”横浜商工会議所”と名称変更が行われます。

明治30年代に入ると本町通り界隈は一大金融街の様相を呈してくるのですが、横浜銀行集会所が設立されたのはそんな時代の話しで、1906年(明治39年)、現在地とは別の本町6丁目に新築され、同時に財団法人として認可されることとなりました。

ちなみに現在の建物は、関東大震災後の1936年(昭和11年)に再建されたものです。

余談ですが、当時(明治10年代以降、40年代に至る時期)の本町通り界隈では、貿易の現場に必須のものとして盛んとなった商人の活動や銀行の進出共々、馬車道の夜店が活況を呈していたようです。

その昔の”貿易港・横浜”にて栄えた金融街のイメージとしては、元々は兜町やウォール街、あるいは金座や銀座、銭座のような形ではなく、強いて言うなら”天下の台所”時代の大坂の両替商に近い形(お金同士の交換やお金と債券等の取引ではなく、まずはじめにお金とモノとの取引ありきの形態)だったのではないかと思いますが、このような歴史の延長上にある現在も、商取引の跡が残されている他、かつて銀行として使われていた建物などが多く残されています(参考:日本銀行両替商の活躍“、日銀金融研究所江戸時代の貨幣鋳造機関(金座、銀座、銭座)の組織と役割─金座を中心として“、平和不動産 “日本橋兜町の歴史“)。

 

生糸貿易商・中居屋重兵衛店跡

現在、現地に特に何が残されているというわけではないのですが、時期的には明治以降の発展の前夜にあたる幕末期、1860年代に活躍した上野国(現・群馬県)の商人・中居屋重兵衛の店舗跡地として伝えられる場所に、案内書きが置かれています。

安政6年(1859年)の古地図を見ると、既に現在案内書きが置かれている区画に”中居屋重兵衛”の名を確認することが出来ますが、当時の本町通り界隈は、開港場の整備が整えられた後の横浜へと移住した”移住商人”が居を構えていた(幕府が、商人の横浜移住を推奨していました)という、開港場の日本人街にあたる一帯で、各地から多くの商人が軒を構えていたようです。

明治の繁栄前夜の話しであり、”豚屋火事“からの復興によって、新生”日本大通り”地区が誕生する前夜の話しですね。

 

アクセス

開通合名会社の煉瓦遺構

 

旧横浜銀行集会所

 

生糸貿易商・中居屋重兵衛店跡

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