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日本大通り地区の歴史(日本大通り、横浜公園、横浜スタジアム)
横浜の開港と神奈川運上所
神奈川運上所跡 -日本大通り”前”の時代-
開港当初、開港場・横浜の中心だったのが、波止場(現在の象の鼻付近に作られた”西波止場”)と共に作られた運上所です。
運上とは「運送上納」の略称ですが、神奈川運上所では、外交事務の他に関税業務が行われました。
現在、神奈川県庁の敷地内には、跡地の記念碑が置かれています(碑は県庁舎に向かって敷地内左端、写真奥が県庁舎です)。
港崎(みよざき)遊郭の設置
開港直後の横浜港では、現在横浜公園がある場所に、江戸の吉原を模した港崎(みよざき)遊郭という遊郭が作られていました。
遊郭とは花魁に象徴される成人男性の夜の社交場のことですが、当時はそれを受け入れていた社会があったのだといういうことで、開港にあたって物議を醸した”港町・横浜”の発展促進を狙いとして、山下町居留地傍に作られました。
遊郭では、花魁や遊女に現代では考えられない位重い事情があったり(貧しい家から身売りされてくるケースが大半だったようです)、あるいは劣悪な労働環境があったり(居住移転の自由が制限され、一か所にとどめ置かれる。待遇も悪く、時に性病の温床となる)といった反面、利用客である男性側には様々な粋や楽しみもあったといわれます。
究極的にはそこで見染めた花魁を遊郭から引き取る(身請けと呼ばれる制度を利用したもので、客側が遊女、あるいは花魁の”借金”を払ってしまえば問題ないという理屈です)こともできたようですが、”身請け”にあたってはべらぼうな額の補償金を伴うこととなったのであろうあたり、想像に難くないところです。
諸々の事情を含めて捉えるなら、当時の世の中では、当時の世の中の理屈がどこかに救いを設けようとする形で回っていたのでしょう。
大火と日本大通り・彼我公園の誕生
日本大通りの誕生
急造の波止場が作られ、運上所が実務を取り仕切っていた最初期の横浜港では、神奈川運上所を中心として、海側に向かって左側に日本人街、右側には外国人居留地が作られました。
開国までに時間がかかった外交的にはともかく、いざ開港してしまえば現地での展開は早かったということなのですが、開港7年後の1866年(慶応二年)、俗に(火元となった豚肉料理屋・豚屋鉄五郎方の名を取って)”豚屋火事”と呼ばれる大火事が発生したことによって、当時の関内地区の2/3以上が消失します。
“豚屋火事”の生々しい証言記録は、日本側のみでなく、例えばイギリス人外交官であるアーネスト・サトウの証言をはじめ、外国人居留民側の記録にもその様子が遺されていますが、行政・商業の中心地で発生した大火災は、周辺一帯の環境に大きな転換期をもたらしました。
そのひとつが、外国人居留地と日本人街の間に「延焼防止エリアを設けよう」との目的の元に作られた、日本大通りの誕生です。
中央車道12メートル、その左に3メートルの歩道、右に9メートルの植樹帯を持つという、当時の日本では最大級の幅員を持つ通りは、日本の近代街路の発祥にもなりました。
こののち横浜はさらに関東大震災、横浜大空襲という二度の大災害、さらにはGHQによる領土接収という不運に見舞われることになるのですが、とにもかくにも歴史的な大火は今日につながる大きな変化をもたらします。
港崎遊郭の焼失と彼我公園の誕生
「近場に遊郭があれば、外国人居留民もいついてくれるだろう」ということが日本側の狙いとしたところですが、遊郭の設置は居留民側からの要望でもあったようです。
双方の合意の下で新しい港町に作られたのが港崎遊郭だったのだ、ということですね。
現在横浜公園内にある彼我庭園には、港崎遊郭最大の妓楼(ぎろう、遊女のお店)だった”岩亀楼”の石灯籠が置かれていますが、在りし日の一帯には遊郭特有の華もあったようです。
ただし残念ながら港崎遊郭もまた、幕末の大火・豚屋火事によって消失してしまいます。悲惨だったのは、この港崎遊郭の一帯だけで400人以上の遊女が焼死してしまったということでしょう。
港崎遊郭がモデルとした吉原の遊郭では、遊女の逃亡防止のため、遊郭を取り囲むように”お歯黒どぶ”と呼ばれた堀が張り巡らされていたのですが、港崎遊郭周辺の古地図(Wikipediaより)を見ると、やはり吉原同様に周辺が堀で囲まれているのがわかります。
このことが悲惨な災害の原因になってしまった一面も、やはりあったのかもしれません。
ともあれ”日本大通り”同様、大火災からの普及に迫られることとなった港崎遊郭・跡地ですが、大火からの復興事業の一環として、明治9年(1876年)、日本人・外国人共用の”彼我公園”が作られました。
彼我公園の言う彼我とは”彼”=外国人と”我”=日本人の意で、そのネーミングには「外国人と日本人共用の公園」といった意味があります。
山手の居留地に居留民専用として作られた山手公園とは、対照的な開放感が特徴です。
彼我公園の利用者は当初外国人居留民に偏重していたようですが、ぼちぼち日本人側の利用も増えていき、明治42年(1909年)には”彼我公園”が”横浜公園”となりました。
クリケット競技場と日本初の国際試合
“彼”と”我”の共用の公園である彼我公園内には、居留民同士がスポーツ(クリケット、ラグビー、サッカー等々)を楽しむ場として、クリケット場が作られました。
英国発祥のクリケットは日本社会にはなじみの薄いスポーツですが、競技人口は世界二位、オーストラリア、インド、南アフリカ、西インド諸島などの英連邦諸国で主に親しまれているようです(参考:日本クリケット協会 “クリケットとは“)。
良く知られているのは野球との類似性で、しばしば「野球の原型がクリケットだ」などとも言われますが、クリケットの起源は13世紀にあるとのことで、同じイングランド発祥のサッカーやラグビーに比べても圧倒的に長い歴史を誇ります。
サッカーとラグビーは18世紀、野球(アメリカ発祥)は19世紀に起源があるといわれていますが、クリケットがアメリカに渡った時にそれがベースボールになったのだという捉え方も、競技自体の類似性の他、伝わった経路や時系列的にも的を射たものですね。
クリケット場として造られたグラウンドでは様々なスポーツが楽しまれ、特に外国人居留民のスポーツクラブとして発足したYC&AC(YC&AC公式サイト “A HISTORY OF YOKOHAMA COUNTRY & ATHLETIC CLUB“)との間では、日本人学生との間でいくつかの記念すべき交流試合(日本初の国際試合)が行われました。
明治29年(1896年) | 旧制一高(現・東大教養学部)野球部 vs YC&AC |
明治34年(1901年) | 慶應義塾ラグビークラブ vs YC&AC |
当時の一高野球部は国内では無敵の強さを誇っていたようで、この時の試合でも29-4というスコアで圧勝しています。”日本代表チーム”としての一高野球部の試合開催及び勝利が一高生を熱狂させると同時に、日本チーム=一高野球部チーム勝利の報は、全国規模のニュースともなったようです(参考:東京大学広報誌『淡青』vol.19 一高野球部、大勝利の日)。
慶應義塾のラグビークラブは現在の体育会蹴球部の前身ですが、慶應では、ラグビー部は蹴球部、サッカー部はソッカー部が正式名称です(リンクは共に公式サイト)。残念ながら、慶應のラグビークラブは初対戦では5-35で敗北してしまい、7年後の対戦で、12-0のスコアでリベンジ=日本人チームの初勝利を勝ち取ったようです(慶應義塾公式サイト “日本ラグビーのルーツ“より)。
クリケット競技場から野球場へ
様々なドラマの舞台となった彼我公園内のクリケット競技場でしたが、1923年(大正12年)に発生した関東大震災後の復興事業の一環として大掛かりなグラウンドに整備され、公園内に体育館や音楽堂なども併設されます。
その結果、震災前の彼我公園というよりは、現在の横浜公園+横浜スタジアムに近い形の”横浜公園球場”となりました。
震災から復興後の出来事としては「当時の日本球界を代表した投手である沢村栄治が、一人メジャーリーグ選抜打線の前に立ちはだかった」(3番ルース、4番ゲーリックのメジャーリーグ選抜打線相手に完投し、5安打1失点の好投。日本プロ野球記録 “日米野球“)試合などが挙げられます。
1934年(昭和9年)の日米野球では、その沢村投手や、後に戦後のプロ野球で名監督として名を馳せる三原脩(おさむ)さんや水原茂さんなどを擁した日本代表チームが、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックを擁したアメリカ代表チームと戦ったようです。
当時の横浜公園でも日本代表vsメジャーリーグ選抜の試合が一試合行われていますが、その結果はというと、4-21の大敗、この年の日米野球も日本側の16連敗だったようです(参考:日本プロ野球記録 “1934年の日米野球“)。
戦後の横浜公園・横浜スタジアム
戦後の占領統治(接収)期、中区の大半がGHQに接収された時期には、横浜公園球場はゲーリック球場と名を変え、日本初の夜間照明付きグラウンドとなった後、日本初のナイトゲームが行われた球場ともなりました。
戦後日本にとって激動期の節目となった主権回復(昭和26年=1951年)の4年後(昭和30年=1955年)には、ゲーリック球場は横浜公園平和野球場と再び名を変えます。
昭和40年代に入ると球場の老朽化が言われるようになり、結果的にはこの流れが現在の横浜スタジアムを生み出すこととなるのですが、”横浜スタジアム”建設にあたっては、主に予算を巡る部分で実現不可を予感させるような展開もあったようです。
そのために設立されたのが”株式会社横浜スタジアム”という横浜スタジアムの運営会社だったのですが、2011年のDeNAによる球団買収(2011年11月4日ロイター “DeNAが95億円で横浜ベイスターズ買収、TBSなどから株取得“)後、2016年に球団経営と球場経営が一体化することによって、長らくの別運営状態が解消されました。
スタジアムの別運営解消は横浜公園にとっての戦後の終わりを意味する、都市計画の一つの大きな節目にあたる出来事ですが、買収後のベイスターズの躍進とも併せてDeNA様様で語れる部分ですね。
参考:横浜スタジアム公式サイト内「横浜スタジアムの歴史」他
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