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【街歩きと横浜史】鉄道開通と鉄道創業の地(JR桜木町駅傍)
日本初の鉄道開通へ
馬車・人力車から鉄道へ
鉄道開通以前の横浜と江戸の間は、海路を和船・蒸気船で結ぶ定期航路や、陸路の開拓(横浜道の開通)に伴う形で台頭した馬車・人力車が結んでいました。
ただし、元々は陸路に比べ、海路から開港場へのアクセスが優勢な状態でした。
やがて馬車・人力車の台頭によって定期船航路の規模が縮小し、”船→馬車”という開港場への交通手段の主役の入れ替わりが起こるのですが、ほどなく開港場(横浜)付近と東京(新橋)との間が鉄道で結ばれることになったため、今度は鉄道が馬車と人力車に取ってかわることとなりました。
陸路で東海道と開港場付近が繋がれた横浜道の開通は1860年(万延元年)、現在の馬車道(乗合馬車の発着場)に象徴される”馬車の道”が整備されたのが1869年(明治2年)で、鉄道の開通は1872年(明治5年)です。
幕末から明治初期にかけて、開港場を取り巻く交通事情に慌ただしい変化がある様子が見て取れますが、開国後20年を待たずして、早くも交通手段に”決定打”が出て来ることとなりました。
鉄道敷設前夜の事情
鉄道敷設はただ日本側の事情のみで決まったわけではなく、日本と国交を結び通商を開始した国の事情が絡んだ、一大プロジェクトとなりました。
定期船から馬車へ、馬車から鉄道へという交通手段の進化は、敷設計画を巡って混乱した鉄道の開通を待ちながらのものとなったため、全てが最短で進んだわけではなかったようです。
かいつまんで言うと、日本を巡る英米の外交戦の末の鉄道敷設となりました。
「近代日本が鉄道敷設でもめた」事例としては、日露戦争後の講和条約(ポーツマス条約)で取り決めた”東清鉄道の南満州支線(=南満州鉄道)及び付属事業の独占権”と、同じく日露戦争後に締結された桂・ハリマン協定で取り決められた”南満州鉄道の日米共同経営”とが競合した結果、前者(ポーツマス条約)を重んじ後者(桂・ハリマン協定。ハリマンはアメリカの実業家です)が棄却された(そのことは後にアメリカ政府の日本不信の一因となります)という一件が有名ですが、本質的に同種の話=鉄道敷設をめぐる外交戦が、幕末の日米間で展開されたんですね。
元々幕末(慶応年間)以来、幕府には列強の外交官より鉄道敷設計画が幾つも持ち寄られていたようです。
そのため「いつ、どの計画を裁可するか」(ただ敷設すればいいのであれば、いつでもできる)という状態ではあったらしいのですが、残念ながら幕府によって最初に裁可された鉄道敷設計画、アメリカ公使館の書記官アントン・L・C・ポートマンが提出したプランは、
1.幕府が与えた許可が最後の将軍・徳川慶喜の大政奉還後のことであった点(契約自体が無効であるとする解釈)、
2.鉄道の敷設・経営権をアメリカ側が握ることになっていた点(日本の新政府としては、その希望条件を飲めないため、幕府が与えた許可を追認出来ないとする判断)
以上二点から、最終的に却下されました。
“ポートマン・プラン”を巡る交渉の決裂は、最終的には日米間の外交問題にまで発展し、鉄道敷設自体も一度お流れとなりますが、ここで台頭するのが、当時の世界最強国家・イギリスの土木技術者であったR・H・ブラントンです。
そもそも”ポートマン・プラン”を(前記した理由から)廃案とする判断は、ブラントンが提出した意見書によっているのですが、その後ブラントンの意見書の説く方針、およびイギリスの助力を柱とする形で、日本政府が建設する鉄道計画が実行に移されました。
現在は横浜山手の外国人墓地に眠られている”助っ人外人”エドモンド・モレルさんも、ブラントンの提唱したプランに沿って英国から招聘された鉄道技術者ですが、このころから横浜に在住する日本人商人の間でも鉄道敷設を希望する声が目立つようになり、漸く京浜間の鉄道敷設が現実のものとなります。
余談ですが、幻のプランとなった”ポートマン・プラン”を提出したアントン・L・C・ポートマンが一時期住んでいたことが縁となってその名が付いたのが、現在元町中華街駅屋上に位置する、アメリカ山公園です。
(参考:西川武臣『横浜開港と交通の近代化』日本経済評論社、2004年11月25日)
鉄道開通と初代横浜駅前(現・JR桜木町駅前)
ということで、色々あった後の明治5年(1872年)、横浜・新橋間に日本初の鉄道が敷設されました。
鉄道工事は1870年4月25日(馬車道の整備によりメジャーな陸路となった、横浜道開通の翌年です)よりはじまり、その約2年後の1872年6月12日には横浜・品川間が、同年10月14日には新橋・品川間が開通し、横浜・新橋間が全線開業する運びとなります。
現在、桜木町駅の南改札一帯とその付近には、様々な”鉄道創業”関係の碑や記念物等が置かれ、案内展示がなされています。
開業当時の横浜駅と鉄道
駅前広場にかかっている歩道橋横では、明治20年の横浜駅(現・桜木町駅)前の様子が、カラーのパネルとなって掲げられています。
写真中央に位置する噴水塔ですが、日本で初めて横浜に近代水道が引かれたことを記念し、当時の横浜駅前に設置されました。
説明書きには「横浜水道記念館に保存されています」とあるのですが、残念ながらこの9月で水道記念館は全面閉館してしまったようです(横浜市公式サイト)。
“本物”の行方が気になるところですね。
ちなみにこの噴水には、1987年(昭和62年)、近代水道設置100周年を記念して作られた二基のレプリカがあって、うち一基が港の見える丘公園内・山手111番館横に設置されています(もう一基は当時の横浜の水源であった津久井郡津久井町に寄贈されたようです)。
周辺の鉄道史跡と改札前展示
JR桜木町駅の南改札を出てすぐのところには、初代横浜駅の様子や、
鉄道敷設計画、開業式典の様子、
旅客業の他に新たに始まった貨物運送についてなど、かつての様子が様々展示されていますが、
史跡・展示は桜木町駅周辺のみにとどまらず、例えば汽車道や横浜港駅跡など、もう少し広い範囲、およそみなとみらい線沿線の全線に散っていることもわかります。
昔は改札を出てすぐのところに、日本初の鉄道敷設に多大な尽力をした英国人鉄道技術者である、
エドモンド・モレルさんのレリーフがあったのですが、現在は改札から少々離れたところに移動されました。
“鉄道創業の地”記念碑
JR桜木町駅の南改札西口出口から少し歩いたところに、”鉄道創業の地”記念碑があります。
ここに初代横浜駅があったということを記念する碑ですが、
三角柱の形で建てられた三面の鉄板には、それぞれ
当時の時刻表と運賃表、
鉄道創業を記念する碑文と、
創業当時の横浜駅の様子が刻まれています。
すぐ傍に植樹されているのが、毎年春に一帯を彩る、”モレルの桜”です。
モレルの桜から少し歩いたところには、
汽車ポッポの桜があります。
こちらも、日本初の鉄道開通を記念しての植樹です(2012年3月植樹)。
東横浜駅跡/震災復興後の桜木町の碑
桜木町駅南改札西口方面には、出てすぐのところに駅前広場がありますが、その一角に、旧横浜駅から分離した貨物駅である、東横浜駅跡の碑があります。
旧横浜駅、初代横浜駅というと旅客運送の華やかさの方にのみ目が行きがちですが、その陰にあったもう一つの世界が、碑文に刻まれています。
その右隣にあるのは、
“震災復興後の桜木町の碑”及び”開港の道(道中赤レンガ倉庫などを経由して港の見える丘公園まで向かう、海沿いの街歩きコースです)”スタート地点の標です。