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【横浜山手の公園】山手公園(山手本通り、カトリック山手教会傍)

山手本通りエリア

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【横浜山手の公園】山手公園(山手本通り、カトリック山手教会傍)

山手公園へ

公園内の様子

公園坂から上った場合や山手本通りから下ってきた場合の、山手公園(公式サイト)入り口付近です。この入り口のほか、本牧通り側に通された桜道沿いにも、山手公園の入り口が用意されています。

入り口付近には”日本庭球発祥の地”が置かれていて、

すぐ傍にはテニスコートへの入り口がありますが、

テニスコートの周囲には、特に新緑の季節は、一面緑が生い茂ります。

公園中ほどにあるテニスコートの入り口付近には国指定名勝の碑が置かれていて、テニスコートの向こうには、かすかにテニス発祥記念館が見えています。

テニスコート横に広がる芝生の広場には、

東屋=ガゼボも用意されています。

テニスコートや旧山手68番館傍の芝生スペースは、気候がいい季節の晴天日などにはとても居心地のいい空間になってくれますが、

すぐ隣には、丘の斜面部分が山手公園の一部となっているエリアがあります。

about 山手公園

山手公園は、1870年=明治3年、妙香寺の敷地の一部を借地し、外国人居留民の出費によって作られた日本初の洋式公園(=洋式の公共庭園)です。

外国人側に”パブリックガーデン”、日本人側に”山手公園”と呼ばれた外国人専用公園が作られたきっかけは、開国当初の日本国内の不安定な政情にありました。開港場やその周辺のみならず、後に外国人居留地となる山手地区自体も血なまぐさかった幕末期、日本国内での”憩いの場”創出は、外国人居留民にとっての悲願でもあったんですね。

開園8年後の1878年=明治11年には、居留外国人有志ではなく私設団体”レディース・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブ”(現・横浜インターナショナルテニスコミュニティ)に借地権者が移ったことを契機として、公園にてテニスクラブが創設されると同時にテニスのクラブハウス、さらには日本初のテニスコートが作られ、日本で初めてテニスがプレイされた公園となりました。

関東大震災後の1929年(昭和4年)より山手公園は一般開放され、日本人も使用できる公園となりますが、近年では、2004年3月には国の名勝に指定され、2009年2月には横浜公園、根岸森林公園と共に”旧居留地を源として各地に普及した近代娯楽産業発展の歩みを物語る”近代化産業遺産の認定(近代化産業遺産群・続33(ストーリー19、P66~68)を受けました

元のクラブハウスとは別の建物ですが、現在は旧山手68番館が山手公園のテニスコートのクラブハウス(山手公園管理事務所)として使われている他、公園内にはテニス発祥の地であることを記念した”横浜山手テニス発祥記念館“が設置されています。

余談ですが、同時期には、このほかにも1868年(明治元年)、日本初の”運動が出来る洋式公園”だと言われる神戸の東遊園地(公式サイト)が造られた他、1903年(明治36年)には皇居傍に”日本初の近代的洋風公園”日比谷公園も開園していますが、これまでにはなかった新しいタイプの公園が国内に次々開園していく様子からは、そこそこ長いスパンで海外文明の流入が続いていた様子を見て取ることが出来ます。

参考:文化遺産オンライン “山手公園“、文化庁 “国指定文化財等データベース・山手公園“、横浜インターナショナルテニスコミュニティ公式サイトYITC140年の歩み

彼我公園(=横浜公園)との比較

ほぼ同時期(1875年=明治8年)に作られた横浜公園との違いは、横浜公園が”彼我公園”と呼ばれ、日本人・外国人共用の公園とされたことに対して、山手公園は外国人居留民専用の公園として造られた点にあります。

そもそも彼我公園は開港場近くに作られた港崎-みよざき-遊郭跡地の公園であったため、従来より日本と海外の歩み寄り的な含みが持たされた地であったとも言えますが、一方で外国人居留地内に作られた山手公園に何が求められたのかといえば、まずは外国人居留民にとっての安全と、憩いの場であることでした。

ということで、山手公園の門戸が日本人にも開かれることになるまでには、明治3年の開園(1870年)から半世紀以上の時間を要する(1929年=昭和4年)ことになります。

横浜山手・テニス発祥記念館

別記事に移転しました。

旧山手68番館

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