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【街歩きと横浜史】港の見える丘公園の近代史(幕末から明治へ)

港の見える丘公園

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【街歩きと横浜史】港の見える丘公園の近代史(幕末から明治へ)

横浜山手の近代と”港の見える丘”

開港期の横浜山手

近代横浜の始まり -開港地での共存-へ移転しました(2024.3.10配信予定)

討幕・新政府成立への流れ

以下は、横浜史というよりは日本史がメインとなる話題です。

公武合体派と尊王攘夷派の対立

居留地に駐屯する英軍・仏軍が日本の政情に神経をとがらせていた頃、当時の内政の中枢(幕府・朝廷)では、”公武合体派”と”尊王攘夷派”(以下、”尊攘派”として進めます)の対立が先鋭化します。

前者の中心は幕府の他、薩摩藩の島津久光や土佐藩の山内容堂、さらにはいわゆる”一会桑”(一橋徳川家、会津藩、桑名藩)など雄藩中心、後者の中心は長州藩です。

こと開国や外国人居留を軸として見た場合、体制に属する前者(公武合体派)が最終的に開国和親を是とした時、後者(尊攘派)は前者とは真逆の主張となる、条約破棄・鎖国継続・外国人排斥を是とします。

双方は”開国を是とするか否とするか”という核心部分で正反対の結論を持っていたことから、当時の時勢とも相まって、やがてその対立自体が武力衝突を伴うものへと変貌しました。

八月十八日の政変・蛤御門の変

薩摩藩政をリードする薩摩の国父・島津久光が”公武合体”(討幕による新政府樹立ではなく、幕府・雄藩と朝廷の連立体制)を主張していた薩摩藩では、藩論を統一するため、生麦事件発生と同年(1862年=文久二年)に寺田屋事件によって尊攘派を粛正し、翌年(1863年=文久三年。薩英戦争発生と同年です)には会津藩と協同して”八月十八日の政変”を起こすことによって、京から尊攘過激派・長州藩とその一派を追放します。

この政変は、尊攘派の公家を抱き込んで”朝廷の乗っ取り”を図った長州過激派の影響力を京から一掃するために実行された政変ですが、翌1864年(元治元年)には、幕府の京都守護職(松平容保・会津藩)指揮下にある新選組が池田屋事件によって長州藩・土佐藩等の尊攘派活動家を襲撃・粛清すると、前記”八月十八日の政変”で京を追われた長州藩の過激派が、”失地回復”を狙って再び上京します。

しかし長州過激派は京において会津藩、桑名藩、薩摩藩の兵と激戦を繰り広げた末、再び敗北し、またしても京を追われる身となりました(禁門の変=蛤御門の変)。

第一次・第二次長州征伐

同年(1864年=元治元年)、尊攘過激派せん滅を狙う幕府は長州征伐を実施し、長州藩を恭順させることに成功するのですが(第一次長州征伐の実施)、マクロな視点から事態の表層を追うのであれば摩訶不思議なことに、この長州征伐を境として幕末の動乱の潮目が逆転します。

とどめを刺されたはずの長州藩が息を吹き返し、公武合体を推進していたはずの薩摩藩が幕府に反旗を翻すことによって、公武合体から武力討幕へと形勢が一気に変わってしまうんですね。

良く知られているように、ポイントは両藩の下級武士の動向にありました。

一度は幕府に対して恭順の姿勢を見せた長州藩の藩論は、開国・討幕を主張する勢力となった”かつての尊攘派”によってリードされ転回すると、再び幕府に対峙する姿勢を鮮明にします。これを受けた幕府は二度目の長州征伐(1865年=元治二年、慶応元年)を計画しますが(第二次長州征伐)、”英国のバックアップを受けた薩摩藩”と繋がる長州藩を前にして、あえなく計画倒れに終わります。

公議政体論から武力討幕へ

第二次長州征伐が失敗に終わったのは、”国父”の島津久光が主張する藩論である公議政体論(雄藩による連合政権樹立)を向こうに回した西郷隆盛が討幕計画を進め、イギリス経由の武器密輸を通じて長州藩の味方に回ったためですが、1866年=慶応二年、薩長両藩の間に同盟関係が成立すると”武力討幕”は現実のものとなり、公議政体論を背景とした公武合体は力づくで退けられることとなりました。

その結果、1867年=慶応三年には王政復古の大号令によって幕府の廃止等が、小御所会議によって新政権での徳川慶喜排除がそれぞれ決められると、翌1868年=明治元年には江戸城が無血開城されるなど、藩閥政府主導のいわゆる”明治維新”が進んでいきます(参考:戊辰戦争)。

当時の日本にとって果して武力討幕が正解だったのか、それとも公議政体による公武合体政治が正解だったのか。かれこれ150年が経過した現在でも熾烈な意見対立が存在するところではありますが、とにもかくにも開国後約10年の時を経て、時の日本は新たな船出の時を迎えることとなりました。

参考:【街歩きと横浜史】横浜毎日新聞が伝える、創刊当時の世相と鉄道開通

“山手町”へ

国内での動乱は、徳川幕府亡き後も戊辰戦争、士族の反乱、自由民権運動と言った形でまだまだ継続していくことになるのですが、開港地・横浜山手の外国人居留地においては、新政権成立によって”文明開化”が奨励されたことから街の発展が軌道に乗り始めます。

明治8年には外国人居留地の整備の進展に伴って英仏両軍が居留地から撤退し、明治政府が主導した居留地の整備も明治20年代には完了すると、同32年には地域一帯が現在の町名である”山手町”に改称され、地域一帯に設定されていた(英仏が有する)永代借地権も昭和17年には消滅するに至りました。

参考資料

『横浜・中区史』、『横浜市史』他

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