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【横浜街歩き】ヘボン博士邸跡(元町中華街駅最寄り、フランス橋傍)

山下町/新山下エリア

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【横浜街歩き】ヘボン博士邸跡(元町中華街駅最寄り、フランス橋傍)

ジェームス・カーティス・ヘボン博士と横浜

外国人医師として

ヘボン博士(James Curtis Hepburn)は、医師兼宣教師として日米修好通商条約発効年である1859年に来日し、近代日本の成長・発展に多大な貢献をした”助っ人外国人”の一人です。

ヘボン博士の本名を正確な発音に沿って表記すると、ジェームス・カーティス・”ヘップバーン”となるのですが、当時の日本人の耳にはヘボン博士の発音する”ヘップバーン”が”へバーン”と聞こえた上、呼びかける際にもいわゆる日本人英語的な発音で”ヘボン”となってしまったところ、他ならぬヘボン先生本人がそれを受け入れたことによって、”ヘップバーン”ではなく”ヘボン”が本人公認の公称となった、というエピソードがあるようです。

この一事からして、今でいうところの”親日外国人”を感じさせるヘボン先生ですが、まずは日本に来た以上とことん日本に溶け込むことを目標としながら、日本人専門の医師としての時間を過ごすことになります。

医師として勤める傍ら、言葉、習慣、風習、日常生活、あらゆる側面で日本に同化することを目指したようです。

イメージや上辺にとどまらない、”ガチ”の親日助っ人外国人だったんですね。

本来は医師であるヘボン博士のこの姿勢(自分自身を日本の国に同化させる努力を積み重ねていくという姿勢)は、後に全く違った分野で歴史的な業績(ヘボン式ローマ字表記の開発、日本初の和英辞典=和英語林集成の編さん、和訳聖書の出版など)を残すことの原動力になっていくのですが、ともあれ、アメリカはニューヨークからの横浜到着後、当初ヘボン博士は神奈川宿にて医師を勤めていたようです。

激動の時世

元々医師としてのヘボン博士の腕は抜群に良かったようですが、問題はやはりキリスト教の布教を極度に警戒していた当時の幕府の方針と、当時の世情でした。

朝廷共々幕府はとにかく外国人を極度に警戒している、日本人の一部には”尊王攘夷”を唱えて過激な行動に走る勢力がある、一方で、この時期日本に渡航した外国人の中には素行のよろしくないものも少なくなかったということから、結果として日欧双方の板挟みになったヘボン博士の良心が割を食う形になってしまった、といったところですね。

医師として活動しようにも八方塞がりとなってしまっていたというヘボン博士を取り巻く状況は、やがて一人の漁師の眼疾がんしつ治療がきっかけとなって打開され、以降、”医師・ヘボン”株が急騰します。

その機会さえあれば評価は自ずとついてくる腕があったのだということで、名医としてのヘボン博士の評判は日に日に高まっていくこととなるのですが、医師としての実績(難病治療や医学生の指導など)を重ねる傍らで、当初より続けて来た日本語研究にも一層の拍車がかかります。

このような毎日の中、次のフェーズで必然的に訪れたのは、当時の日本国内にいた、向学意欲が高く意欲に見合った実力を有していた学生たちとの出会いでした。

ということで、ヘボン博士の毎日は、ますます堅調に推移していきます。

一方、時勢はますます過激化の一途を辿り、その結果再び外国人への締め付けが強化されました。

具体的には、生麦事件の発生(1862年)を契機としたものですね。

後世からの視点では、討幕がいよいよカウントダウンを始めた時期、生麦事件への報復である薩英戦争も、激動の時世に雷同したかのように発生した下関戦争も、同じくその翌年開戦していますが、幕府はその機にヘボン博士に横浜行きを繰り返し勧告します。

ですが”横浜=江戸時代の出島“だと判断していたヘボン博士は、その要求を固辞し続けました。

鉄道開通以前の横浜はほぼ”陸の孤島”状態でしたということで(参考:神奈川湊と横浜港)、ヘボン博士の所見にしても、もっともなものではありました。

結果、神奈川宿の診療所にしても開店休業状態で失意の日々を送ることになったようですが、ここで捗ったのが”日本語研究者”としての仕事であり、意欲ある学生に教えを授ける”先生”としての日々でした。

“9人の生徒”達が門下生となることを受託した”ヘボン先生”は、1862年=文久二年、心機一転して横浜(=山下町の外国人居留地)行きを受託、現在碑石が残されている地で新たな活動を開始することとなりました。

“9人の生徒たち”はその後ほどなくして”ヘボン先生”の指導から脱落していったようですが、横浜でのヘボン先生の新生活は、従来の本職である医業に携わりつつ、敬虔なクリスチャンとしての姿勢をベースとした、アカデミックな性格を色濃く持つものでもあったようです。

神奈川宿から横浜へ

移転の翌年、1863年=文久3年には、横浜の外国人居留地にて”ヘボン塾”が開講します。

この”ヘボン塾”は、日本語研究(和英辞書の作成、聖書の和訳等)に尽力していたヘボン博士をアシストしていた夫人のクララさんが、先生として切り盛りしていた塾です。

“ミセス・ヘボンの学校”として、横浜のみならず東京でも名高い教室だったようです。

生徒全般に文法・算数・地理・歴史、英語や聖書が教えられたほか、特に女子生徒には歌や編み物、裁縫、洗濯なども教えていたということで、当時としては高度な学問が身についた他、女子生徒に関しては”女子力”を高めることが出来るような場でもあったんですね。

当時の学校としては、かなり画期的なカリキュラムを持っていたのでしょう。

このヘボン塾からは、後に首相・大蔵大臣・日銀総裁、さらには横浜正金銀行頭取を勤めた高橋是清、外務大臣・逓信大臣を務めた林ただす、ジャーナリストであり横浜毎日新聞のオーナー(横浜毎日を買収し、東京横浜毎日新聞とします)でもあった沼間守一ぬまもりかずらを輩出した他、ヘボン塾の女子生徒を対象とした洋学塾は、現在のフェリス女学院のルーツとなりました。

ヘボン塾からフェリス女学院への流れは、元々、ヘボン塾にてクララ先生の留守を預かっていたのがヘボン塾の”人気講師”だったメアリー・キダー先生(フェリス女学院創設者)だった、という関係が引き継がれる形ではじまります。

やがて男女共学から男女別学となったヘボン塾の女子生徒が”キダー先生のヘボン塾”の生徒となった後、かつてのヘボン塾は現在のフェリス女学院へと繋がっていきました。

クララ先生、キダー先生共クリスチャンですが、余談としてこの時期の横浜では、他にも”女性クリスチャンが自らのミッションに基づいて教育施設を作った”という形の活動が行われています(参考:横浜山手と女子校)。

ところで、幕末には激動に次ぐ激動に遭遇することを余儀なくされたヘボン博士の毎日ですが、1868年=明治元年に形式上新政権が樹立した後は、その激動も年々鳴りを潜めていくことになったようです。

現在のホテル・ニューグランドの前身であるグランドホテルが開業(明治6年=1873年)したのも、ヘボン博士が横浜に滞在していた頃のことですが、このころのヘボン博士は、慶應義塾の創設者である福沢諭吉、徳川幕府幻の16代将軍・徳川家達いえさと昌平黌しょうへいこう出身の元幕臣で、戊辰戦争の最終局面である箱館戦争時には蝦夷共和国の総裁を務めた(明治新政府では農商務大臣や外務大臣等を歴任した)榎本武揚たけあきなど、幅広い交友関係を持っていたようで、新政権樹立後の横浜では華やかな日々を過ごしていたようです。

参考:望月洋子『ヘボンの生涯と日本語』新潮選書、昭和63年4月20日

ヘボン博士邸跡

ヘボン博士邸跡の碑は、山下町に通された水町通りと海岸教会通り、二本の通りの間の区画の堀川沿いに残されています。元町中華街駅の元町口からほど近いところに架けられた谷戸橋の傍で、もう少し大きいくくりだと山下公園通り本町通りの間に位置していますが、

港の見える丘公園フランス山と人形の家(公式サイト)間が結ばれているフランス橋とも、繋がれています。

どこかトリックアートのような作りになっていて、ヘボン博士の顔が浮かんで見える石碑と、

そのすぐ隣には横浜市公式の案内が置かれています。

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