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【街歩きと横浜史】開港都市・横浜の発展と関東大震災

街歩きと横浜史

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明治・大正期の横浜

横浜開港50周年(1909年=明治42年)

この時期の横浜にとって一番華やかな出来事といえば、やはり明治42年(1909年)に、横浜港が開港50周年を迎えたことが挙げられるでしょう。

開港50周年記念祝祭が開催されると同時に、今となっては市民におなじみの横浜市歌が制定され(参考:横浜市歌の制定)、後に”50周年”を祝した開港記念横浜会館が建設されるなど(参考:横浜市開港記念会館)、街は祝祭一色となります。

全てが手探りで始まった開港当時を思えばまさに前途洋々といったところで、市歌になぞらえるのであれば”むかし思えばとま屋の煙ちらりほらりと立てりしところ”が”飾る宝も入りくる港”となって行ったという、そんな時期に該当します。

参考:近代横浜の始まり -開港地での共存-

本牧に三渓園開園

明治の末期には本牧の地に三渓園(公式サイト)が開園し、以降本牧の地と発展を共にすることとなりました。

参考:【街歩きと横浜史】三渓園

彼我公園での、日本初の国際試合 -旧制一高野球部-

港崎遊郭の跡地に作られたという現在の横浜公園の前身・彼我公園の利用者は、名前に込められた期待とは裏腹に、当初外国人居留民に偏重していたようですが、明治30年を前後して相次いで開催されたYC&AC(YC&AC公式サイト “A HISTORY OF YOKOHAMA COUNTRY & ATHLETIC CLUB“)を対戦相手とする国際試合(後述)に象徴されるように、ぼちぼち日本人側の利用も増えていくと、開港50周年の節目に当たる明治42年(1909年)には公園名が”横浜公園”となりました。

国内スポーツの黎明期:一高野球部の健闘

明治29年(1896年) 旧制一高(現・東大教養学部)野球部 vs YC&AC

現在の東京大学野球部の前身である旧制第一高等学校(一高)野球部は、1872年(明治5年)より(”帝国大学”となる以前の東京大学にて、野球の同好会的に)始まった黎明期を経て1890年(明治23年)に成立すると、当時の国内では”球界の盟主”として無敵の強さを誇ったようです。

YC&ACを国際試合で迎え撃った明治29年まで国内38連勝と”敵無し”状態、対するYC&ACはといえば、一高野球部側には本場の強豪チームとして伝わっていたようで、”初の国際試合”についても、度重なる一高側からのオファーを漸くYC&AC側が受けて立つことになった、という顛末がありました。

“YC&AC”が一高野球部側の熱意に折れる形で成立したという国際試合では、国内で無敵を誇った一高野球部が29-4というスコアでYC&ACに圧勝していますが、”日本代表チーム”としての一高野球部の試合開催と勝利は、時の一高生を熱狂させると同時に、全国規模のニュースともなったようです。

参考:東京大学広報誌『淡青』vol.19 一高野球部、大勝利の日

文武両道からの分岐

周辺事情や時代背景としては、それまで文武両道だった一高が”文”に傾倒しだすのが、ちょうどこの時期(明治半ば頃以降)を境とした話しです。

新政府の政権運営が漸くしばしの安定へと向かい、かつ”御一新”後に生まれた世代が高等教育の就学年齢に達することとなったこの時期以降、大学予備門、あるいは一高自身がただ変わったのみというよりは、そこを核として近代日本の教育制度、さらには行政組織自体が一つの大きな転換期を迎えることとなります。

明治10年に東京大学(後の帝国大学→東京帝国大学、現在の東京大学)が設立された際、東京大学へ入学する生徒の基礎教育を進めるための機関として位置づけられ、整備されたという東京大学予備門(+東京英語学校)は、明治10年代から20年代にかけて第一高等中学校へ、さらに第一高等学校(いわゆる一高ですね)へと改編されました。

大学入学以前に”予備門”へ、というのは、東京大学の前身である東京開成学校(旧江戸幕府の蕃書ばんしょ調所・開成所をルーツとする教育機関で、現在の私立開成中学・高等学校とは別の学校です)時代からの規定だったようですが、明治27年に誕生したいわゆる”ナンバースクール”の中でも、唯一帝都に位置していた一高=第一高等学校の入学難易度が最難関となります。

余談として、私立開成学園は、遣米・遣欧使節団の一員だった佐野かなえさんが”御一新”後に創設した”共立学校”にルーツを持ちます。”共立学校”とは、語義的にはイギリスのパブリック・スクールを理想とした学校を指し示す訳語で、ほぼ同義の名詞には”義塾”などがありますが、二代目の校長には”ヘボン塾“出身の高橋是清さんが就任しています(参考:開成学園公式サイト “学園のあらまし“、慶應義塾公式サイト “「義塾」という名のおこり“)。

また、この学制再編の流れに沿うように、中央官庁の人事関連の法整備も進みます。

1888年(明治21年)に規定された”文官試験試補見習規則”では、『帝国大学(1888年当時、東京帝国大学が唯一の帝国大学でした)の法科・分科の卒業生を、中央官庁に無試験で採用する』(第三条)というどこか象徴的な規則が設けられていますが、このことも、当時盛んにおこなわれていた(?)学制改革と並行して進められた政策の一つです(1893年廃止)。

以降、文武の”文”要素が突き抜けていくことになる旧制高校や帝国大学に対して、文武両道校として台頭を始めるのが、海軍兵学校や陸軍幼年学校/士官学校のような”旧帝国陸海軍の士官養成学校”です。

時期としては、やはり(陸海軍が創設期の終わりを迎えていた)明治半ば過ぎのことでした。

元々は築地に位置していた海軍兵学寮が海軍兵学校と改称(明治9年)した後、有名な江田島校舎へと移転したのが1888年(明治21年)、陸軍士官学校への進学を前提とした陸軍中央幼年学校の設立が1896年(明治29年)のことですが、各教育機関の発展が、それぞれ足並みをそろえて進みます。

ことの良し悪しはさておき、現実問題としていよいよ”江戸・徳川”が過去となる時代が到来することになったということですが、以下”一高野球部”関連事項と、周辺の学制改革を時系列順にまとめると、

1872年(明治5年) 大学予備門や東京英語学校にて、後に”一高野球部”のルーツとなる野球のコミュニティ発足。
1877年(明治10年) 東京大学(後の帝国大学、東京帝国大学、さらには戦後の新制東京大学のルーツ)が創設される。
1886年(明治19年) 旧制第一高等中学校(後の一高、東大教養学部)が創設される。
東京大学が帝国大学となる。
1888年(明治21年) ”文官試験試補見習規則”制定によって、帝国大学卒業生の中央官庁無試験任用が規定される。
1890年(明治23年) 第一高等中学校に野球部(現・東大野球部のルーツ)が成立する。
1893年(明治26年) “文官任用令”制定によって、”奏任官の任用は、原則として高等文官試験による”と規定されたことを受け、中央官庁の無試験任用が廃止される。
1894年(明治27年) 第一高等中学校が第一高等学校に改称される。
1896年(明治29年) 当時国内で無敵を誇っていた一高野球部 vs YC&ACの国際試合開催。
1897年(明治30年) 京都帝国大学設立に伴い、帝国大学は東京帝国大学に改称。
1919年(大正8年) 東京帝国大学野球部発足

一高や東京帝国大学の”文”偏重はまた、不可避の既定路線であったとも推測できるところですが、やがて盟主・一高野球部は慶應義塾野球部に敗れ、さらには早稲田大学野球部にも敗れると、学生野球の人気も”盟主・一高野球部”を中心としたものから”早慶戦”(1903年、後に各競技で盛んとなって行くことに先んじる形で、硬式野球で初開催されます)へとシフトしていくこととなります。

余談として、まさにこの時代(1880年代~90年代)の大学予備門や帝国大学に在籍していたのが夏目漱石(大学予備門から帝国大学へ)や正岡子規(同)、秋山真之(大学予備門から海軍兵学校へ)といった、やがて後世に名を残すことになる文豪、俳人、軍人の卵たちでした。

教育制度が固まっていく前段階(=新制度の導入期)の話し、かつ”司馬史観”(参考:司馬遼太郎文学碑)で捉える日本の近代史が一番輝いて見える時代の話しで、少し前の世代では医学者の森鴎外、少し後の世代では物理学者の寺田寅彦などが在籍していますが、有名人の姿からステレオタイプな学生像を探っても、どこか”特化型”というよりは”万能型”がイメージされるという、”結局はお勉強”に落ち着きそうな今時のそれとは毛色の違いが伝わるようにも感じますね。

この時代の東京帝国大学の学生が主人公となった小説には、例えば有名な夏目漱石の『三四郎』があります。三四郎が帝国大学の新入生として上京するところから物語が始まるという、漱石の前期三部作の一作ですね。

参考:第一高等学校ホームページ第一高等学校略史“、JACAR Glossary “公務員試験及び外交官試験はいつからはじまったの?“、国立公文書館デジタルアーカイブ “文官試験試補及見習規則・御署名原本・明治二十年・勅令第三十七号“、”文官任用令・御署名原本・明治二十六年・勅令第百八十三号“、中村 哲也『明治後期における「一高野球」像の再検討』東京大学野球部公式サイト概要・歴史“、東京大学公式サイト “東京大学は創立以来、同じ名前なのですか?“他

彼我公園での、日本初の国際試合 -慶應義塾ラグビークラブ-

明治34年(1901年) 慶應義塾ラグビークラブ vs YC&AC

慶應義塾のラグビークラブは、現在の慶應義塾大学体育会蹴球部の前身です。

ややわかりにくい(?)ところとして、慶應では、ラグビー部は蹴球部、サッカー部はソッカー部が正式名称です(リンクは共に公式サイトです)。

慶應のラグビークラブは初対戦では5-35で敗北、7年後の対戦では12-0で勝利し、2戦目にして日本人チームの初勝利を勝ち取ったようです(慶應義塾公式サイト “日本ラグビーのルーツ“より)。

余談として、”日本初兼アジア初”のラグビークラブである”横浜フットボールクラブ”が現在の横浜中華街内で結成されたのが1866年(慶応2年)1月のことで、前記した慶應義塾vsYC&ACの試合はそれから30年後のことですが、現在、横浜中華街内には”横浜フットボールクラブ”成立を契機とする”日本のフットボール発祥地”碑が置かれ、碑では慶應義塾vsYC&ACの対戦についても記述されています(参考:【街歩きと横浜史】”日本のフットボール発祥地”碑)。

関東大震災と復興事業 -山下公園と元町公園誕生-

開港以来の山下町の華やかな発展が象徴するように、明治の半ば過ぎから大正にかけての開港地・横浜は、さらに発展の時を迎えようとしていた時代ではあったのですが、1923年=大正12年9月1日、当時の首都の様子を一変させた関東大震災が発生します。

耐震設計などなかった当時(日本国内の建築物に耐震設計が義務化されるのは戦後の話しです)、この震災(大地震と大火災)によって街の様相は激変しました。

まさに被災の直前まで華やかだった開港都市の元外国人居留地は、被災を境としてほぼ全域が廃墟と化し、人的な被害についても深刻だったことが災いする形で、以後約数か月に渡ってその状態が放置されます。

現在の山手町もほぼ同様の状況だったようですが、やがて震災からの復興が本格化へと向かいました。

関東大震災被災と震災復興は、”それ以前”の横浜が”今現在”の横浜に大きく一歩近づくことになった瞬間でもあったのですが、”壊滅的な被害を受けた”ことからの復興だったということで、この時期を境に都市の姿は一変することとなり、以降の横浜が現在の横浜へと繋がって行きます。

主な変化としては、震災後の横浜には鉄筋の建物が増えたほか、以降の横浜では、貿易港としてというよりは、重化学工業の拠点としての発展が目立つようにもなって行きました。

現在、日本大通りエリアの名物となっている”横浜三塔“が現在地にそろい踏みすることになるのも、震災からの復興時の話しです。

参考:『横浜・中区史』、馬車道商店街公式サイト “震災と戦災“他

横浜公園 -クリケット競技場から野球場へ-

関東大震災後の復興事業の一環として、公園内に体育館や音楽堂なども併設され、現在の横浜公園+横浜スタジアムに近い形の”横浜公園球場”となりました。

こけら落としでは、当時人気カードとなっていた早慶戦の新人戦が行われ、15000人の大観衆を集めたようです。

1934年(昭和9年)の日米野球では、当時の日本球界を代表した沢村投手や、後に戦後のプロ野球で名監督として名を馳せる三原脩(おさむ)さん、水原茂さんなどを擁した日本代表チームが、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックを擁したアメリカ代表チームと戦いました。

当時の横浜公園でも日本代表vsメジャーリーグ選抜の試合が一試合行われていますが、その結果はというと、4-21の大敗、この年の日米野球も日本側の16連敗だったようです(参考:日本プロ野球記録 “1934年の日米野球“)。

参考:横浜スタジアム公式サイト “横浜スタジアムの歴史

山下公園の誕生

横浜開港に伴って整備され、貿易港一流の活況を呈していたのが開港以来の山下居留地だったのですが、そのインフラを一瞬にして廃墟化したのが関東大震災でした。

ということで、旧開港地・旧居留地は、震災前後でまるで別の顔を持つこととなります。

同じ開港都市である神戸(三宮エリア)にはいまだに残されている”旧居留地”が横浜には存在しない理由も、もっぱらこの点に宿っていますが、すでに法的には消滅していたかつての居留地そのものを再興させる理由が、この時点でなくなっていたんですね。

参考:開港場と付近の発展 -近代黎明期の山下町-

そのため、復興に当たっては出来ればかつての姿を残すこと、その上でかつてを偲ぶ要素を含めること、そのあたりに重点が置かれます。

地震発生から4年後の1927年(昭和2年)にはグランドホテルの後身である現在のホテルニューグランド(公式サイト)が開業し、新たに横浜の名物ホテルとして復興を遂げたほか、山下町や元町百段のがれき等を利用して作られた山下公園も1930年(昭和5年)に竣工、開園する運びとなりました。

元町公園の誕生

海外からの輸入品や外国人居留民の生活必需品等が販売される一方、商店街で販売するものを作るための工場も有していたのがかつての元町界隈の様子だったのですが、関東大震災によって、町全体が壊滅的な被害を受けます。

元町百段のように、震災によって地形そのものが変わってしまう形で消滅してしまった施設もあったのですが、震災から7年後の1930年(昭和5年)には、同年に開園した市営元町プールの周辺部を整理する形で、新たに元町公園(横浜市緑の協会公式サイト “元町公園“)が開園しました。

開園の翌年には、元町プールの裏側に元町大弓場が建設されていますが、元町公園の住所自体、かつて(1936年=昭和11年まで)は山手町だったところが、現在は元町一丁目となっているという形で、震災の前後での変動が確認されます。

震災後の同地が元町公園になったことによっている、と推測できるところではありそうです。

(参考:神奈川新聞社『横濱』2021年春号 令和3年4月3日、横浜・中区制50周年記念事業実行委員会『横浜中区史』昭和60年2月1日)

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