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元町公園(元町商店街傍、エリスマン邸、ベーリックホール、山手234番館)
about 元町公園
開港以来の元町界隈
相次ぐ条約の締結によって開国に続く横浜開港が決まると、開港場に指定された横浜村(現在の日本大通りや象の鼻界隈)では、交易に必要な関連施設(役所や波止場など)の建設が始まります。
その際、元々横浜村に住んでいた住民は、現在の元町地区へと強制移住させられることになりました。
横浜村を新たに貿易港として拓くため、その場を空ける必要があったんですね。
旧横浜村の住民たちの(現在の元町地区への)移動後、やがて交易場傍にある外国人居留民も利用する商店街として栄えていくことになった元町商店街界隈は、「横浜村の住民だった自分たちが住む村なんだ(ここが本当の横浜村だ)」ということで”横浜本村=横浜元村”と呼ばれていましたが、後に正式に”元町”へと地名変更されます。
初期の元町の特徴としては、国際色が豊かな商人の街として栄えた表通り(現在の元町商店街)と、その傍で形成される職人の街(元町商店街隣に通された、現在の元町仲通りとその付近)が対になっていたことが挙げられますが、例えば表通りの商店街(現在の元町商店街)で販売される家具などは、全て商店街付近(山手側の一帯)で作られていたようです。
販売される家具や日常雑貨の高級化(商品を求めるお客さん側のニーズの多様化・微細化)に歩みを合わせる形で製造過程も分業化しますが、製造過程の分業化は職人の専門分化を促すと同時に、”商”(オーダーを受け、製品を販売する)と”工”(オーダーされたものを作る)の分業も促しました。
そのことがオーダーに忠実な完成品製造を可能とした一方で、当時の元町が持っていた、モノづくりの街としての一面を成長させていたんですね。
工場といえば、良質かつ豊富な湧水を利用することによって興された給水業、さらには西洋瓦・レンガの工場があったこともかつての元町の特徴としてあげられるところですが(後述)、”舶来品を扱うおしゃれな街”イメージと共に、”職人の街”風の雰囲気を醸していたのがかつての元町だったようです。
前者のイメージの延長にあるものとしては、1920年(大正9年)に設立された大正活動写真株式会社(略称は大活)が挙げられます(ただし設立の翌年には本社が東京に移転しているようです)。
後者の雰囲気は、老舗の家具屋さんや金物屋さんがメインストリートに残り、老舗の角打ちのお店(元町愛知屋。食べログ)もその付近に残されているといったあたりに、今現在の元町界隈にも(ごくわずかですが)残されています。
“元町の夜が早い”(多くのお店は夜9時にはお店を閉めてしまう)という特徴も、同じエリア内に”商”と”工”が併存していた明治・大正期以来のものです。夜が早いというよりは、かつての元町商店街を支えていた職人衆の朝が早かったことが、夜早い時間の閉業をうながしていたのでしょう。
ということで、海外からの輸入品や外国人居留民の生活必需品等が販売される一方、商店街で販売するものを作るための工場も有していたのが、かつての元町界隈の様子でした。明治の終わりから大正期にかけて、特に商店街のありかたについては既に完成されつつあった元町界隈だったのですが、1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって、町全体が壊滅的な被害を受けます。
崩壊してしまった元町百段のように、震災によって地形そのものが変わってしまったケースもあったのですが、とにもかくにも早急な復興が望まれるところとなりました。
震災復興からの元町公園開園へ
山下町や山手町がそうだったように、元町界隈でも震災からの復興には多大な時間と労力を要することになったようです。
街は壊滅状態というよりはほぼ全滅し、商店街とその付近は一からの出直しを余儀なくされるのですが、震災から7年後の1930年(昭和5年)、同年に開園した市営元町プールの周辺部を整理する形で元町公園が開園しました(元町公園開園の翌年には、元町プールの裏側に元町大弓場が建設されます)。
現在の元町公園(横浜市緑の協会公式サイト “元町公園“)は、”エリスマン邸と白い電話ボックス、桜、新緑、紅葉”に象徴される山手本通り側と、”プール、遺跡、茂み、坂道”で始まる元町商店街側で別の顔を持っているようにも見えるのですが、これは元町商店街や山手の外国人居留地の持つ歴史が元町公園の歴史に先行し、かつ公園自体が関東大震災からの復興事業の一環で作られたことによっています。
元町公園の住所(現在は元町一丁目です)自体にも、かつて(1936年=昭和11年まで)は山手町だったという現在とのギャップがあるのですが、横浜開港後、早くから商店街としての歴史を重ねて来た元町に隣接する、所々に原野を残しながら開発が進められた外国人居留地へ連なる丘の斜面だったという一帯が、現在は元町公園として整備されています。
(参考:神奈川新聞社『横濱』2021年春号 令和3年4月3日、横浜・中区制50周年記念事業実行委員会『横浜中区史』昭和60年2月1日)
ジェラール水屋敷の貯水槽から元町公園入り口へ
元町商店街側入口
写真つきあたりが元町公園の中央の入り口、左側は”ジェラール水屋敷の貯水槽”です。
ジェラール水屋敷地下貯水槽跡
開港期の元町公園一帯は、フランス人・アルフレッド・ジェラールさんのレンガ・西洋瓦工場が作られていた地であり、船舶への給水を行っていた貯水槽が置かれた地でもありました。
「ジェラールの水屋敷」から給水された山手の湧き水はかなり良質の水だったようで、ミナト・ヨコハマの知名度を世界的なものにすることにも一役買っていたようですが、残念ながら、現在はワシン坂の湧き水同様、飲み水としては使用できないとのことです。
ちなみに当時の横浜山手と井戸の関係は、ビヤザケ通り沿いにある北方町のビール井戸や、横浜地方気象台敷地内にある井戸跡などにも、井戸の遺構という形でその跡が残されています。
元町公園入り口付近にある”水屋敷の貯水槽跡”もかつてを偲べる遺構の一つですが、
現在は、中で鯉が泳いでいます。
元町公園入り口付近
キーワードが”湧き水””ジェラール”となった一帯は、元町公園入口をまたいで続きます。写真の奥方向(右上)には額坂につながっていく坂道、手前(左側)奥方面には貝殻坂につながる坂道がそれぞれ通されていますが、元町公園の入り口は両坂道の間に位置しています。
元町公園内、プール入り口付近からの眺めです。写真の正面が元町商店街方向です。中央には水を流す溝や遊歩道で作られた”せせらぎ広場”が、向かって左側には遊具と、
“塗装業発祥の地”であることを記念した碑があります。かつての元町が”モノづくりの街”としての一面を持っていた時代を思わせる史跡ですね。
せせらぎ広場中央に位置している溝は、かつての湧き水の経路をイメージして作られたもので、この溝の下には”ジェラールの水屋敷”に向かう水が流れているようです。
ジェラールのレンガ工場跡と、今の元町公園
かつては、現在の水泳場事務所付近がまさにジェラールの工場の中心地だったようで(現在は事務所のすぐ裏手にプールが、プールの向こう側には弓道場があります)、
「工場では色々な瓦が作られていた」ことが説明されていますが、公園内はこの付近から山手本通りに向かって、緑の多い一帯に入っていきます。
元町公園内から山手本通りへ
元町公園のプール入り口付近から山手本通りへは、1.およそ白い電話ボックスの周辺を目指す坂道、2.エリスマン邸の裏側から横付近につながれた坂道、3.山手資料館の前付近を目指す坂道という、およそ三通りの坂道が通されています。この三つのルートはそれぞれが繋がりあっているので、丘の斜面にあたる部分を自由に往来できます。
自働電話・山手234番館前付近へ
公園中央付近(プール・弓道場より上部)から山手本通りへ向けて”山道”を少々歩くと、山手本通り沿い、横浜山手聖公会、山手234番館前へ。
今も元町公園名物の一つである、白い電話ボックスは、
東京・横浜間の電話開通100周年を記念して、時あたかも「ケータイ」前夜のポケベル時代、平成2年(1990年)に作られました。”自働電話”とはかつての公衆電話の名称ですが、1900年=明治33年に、東京・京橋に初めて設置された電話ボックスが再現されたものです。
山手本通りの向こう側に位置しているのは、横浜市が管理する西洋館、山手234番館です。
山手234番館、電話ボックス、エリスマン邸があるこの付近一帯は、四季を鮮やかに感じられることも魅力です。春は桜の華やかさが目を引き、梅雨のしっとりしたアジサイの後は新緑が眩しい一帯になり、晩秋から冬の初めにかけては紅葉が鮮やかな一帯となります。
山手80番館遺構付近
ベーリックホールとの間に通された額坂の上り入り口付近にも、元町公園の出入口があります。
公園内を歩いた場合、左手にプールを見ながら坂道を登った時にたどり着ける出入口の一つですが、
出入口傍には、外国人居留地時代の排水溝である”ブラフ講”の遺構が残されています。
かつての元町公園一帯は谷戸(丘陵地周辺の谷状地)だったため、安全で快適な暮らしのためには、雨水が谷戸に流れ込まないような工夫が必要でした。そこで、レンガ工場や給水場を作ったフランス人、かつて”水屋敷”の主であったジェラールさんによってブラフ講が作られたとされています。
現在の元町公園一帯は、ジェラールの工場跡地であると同時に、かつての居留地の中心部でもあったようです。震災前に元町商店街から外国人居留地の中心部に向かって通されていた元町百段や、現在エリスマン邸の裏で遺構となっている山手80番館の在りし日の姿等が、かつての元町・山手の姿を後世に伝えています。
山手80番館遺構奥に見えるエリスマン邸は、平成のはじめ(平成2年=1990年)にこの地に移築され、以降公園の名物となりました。
エリスマン邸付近
エリスマン邸の入り口横には、山手の西洋館や山手地区の案内が書かれた案内板が壁に埋め込まれています。
山手本通り側入り口付近から望むエリスマン邸は緑に囲まれているように見えますが、反対にエリスマン邸側から見ると、緑の向こうに山手本通りが見えます。
公園出口の向こう側に伸びた道はビヤザケ通りにつながる道です。左側に見えるのは横浜雙葉学園の校門ですが、この一帯は横浜雙葉学園(小学校から高校まで)と、サンモールインターナショナルスクール(外国人学校)があるという文教地区でもあります。
山手本通り沿い、山手資料館付近へ(貝殻坂利用)
元町公園エリアから山手本通りを目指すルートにはあと一つ、公園隣に通された坂道である貝殻坂を利用するルートがあります。
元町商店街方面から貝殻坂までのアクセス方法には、外国人墓地隣に通された見尻坂の入り口付近から右側に伸びた道を道なりにまっすぐ進むルートと、元町公園内から貝殻坂を目指すルート、二通りあります。
公園内施設・開園情報
施設名 | 開園日・開園時間 | 入場料他 |
元町公園プール | 7月14日~9月9日
9月3日~9月9日:9:00~17:00 |
デイタイム(9:00~17:00):1時間200円 ナイター(17:00~21:00):1時間300円 |
元町公園弓道場 | 年末年始の他毎月第三月曜日休場 それ以外は8:45~17:30開場 |
個人・団体利用可、個人は1時間130円 希望者に初心者講習あり。10時間5000円。 詳細は公式サイトにて。 |