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JR根岸線・石川町駅(みなとみらい線・元町中華街駅最寄り駅)
about 石川町駅
根岸線隣接駅とみなとみらい線最寄り駅
JR石川町駅は、根岸線では山手駅(大船方面)と関内駅(横浜方面)に隣接しています。
みなとみらい線では元町中華街駅が最寄り駅です。
改札・ホーム
赤(中華街側)と青(元町側)
ホームの壁面では、北口(中華街口)寄りの壁が赤を基調とし、
南口(元町口)寄りの壁が青を基調としていますが、
それぞれの出口の案内と共に、
近隣スポットの写真で構成されるギャラリーが用意されています。
駅名標はみなとみらい線を意識して、”元町・中華街”が付け加えられたものになっています。
石川町駅の駅舎は西の橋のほぼ西隣、中村川が堀川となる直前のところに位置しています(参考:堀川に架かる橋)が、駅の出口自体が川(中村川)を挟む形で二方向(南口、北口)に分かれているので、下車後に何処を目的地とするかによってあらかじめ乗車位置を決めておくことがお勧めな駅でもあります。
上り線の場合(東京方面に向かう場合)、元町・山手方面が目的地の場合は後方車両に、中華街や山下町方面が目的地の場合は前方車両に乗車するのがお勧め、下り線の場合(東京方面から向かう場合)は逆で、それぞれ元町・山手方面が目的地の場合は前方車両、中華街や山下町方面が目的地の場合は後方車両への乗車がお勧めです。
ホームから改札へ
南口方面から出る場合、階段を直進すると元町商店街へと繋がる中村川方面、右手に折れてUターンの方向にイタリア山庭園口が用意されていますが、
北口(中華街口)では、改札を出て右手が歩道橋方面へ、左手が西陽門方面へという違いがあるだけで、同じ改札へと誘導されます。
駅の周辺
南口(元町口、中村川方面)
元町商店街(公式サイト)の端点となっている元町交差点を背にして、元町商店街とは反対方向に進むと、同じ道路沿いに出て来るのがJR根岸線・石川町駅の南口(元町口)です。
“ようこそ、元町へ”の看板の向こうには中村川が流れていて、根岸線はこの真上に通されているため、石川町駅は駅のホームが川に直交する形になっています。この付近から元町商店街とは反対方向に(元町交差点・石川町駅間と同じくらいの距離を)進むと、地蔵坂の起点となっている”亀の橋交差点“です。
横浜市の南部に位置する氷取沢市民の森(横浜市公式サイト)に源流を持つのが大岡川ですが、その大岡川の支流である中村川の下流域は、それぞれ西の橋より東側部分(海側)の河川が堀川、西側部分(陸側)の河川が中村川と呼ばれています。
余談として、大岡川中流域からの支流である中村川と、中村川の延長上に伸びた堀川の違いは歴史的な事情によっています(参考:かつての山下・元町地区)が、大岡川の上流部(源流付近)は旧村名に由来する形で、笹下(ささげ)川と呼ばれています(参考:横浜市公式サイト “町名の由来“)。
南口(元町口、イタリア山庭園方面)
石川町駅の南口=元町口にはもう一つ、山手エリアへの最寄り出口であるイタリア山方面口があります。
元町商店街方向から来る場合は、元町商店街のお隣、元町仲通り(マグカル “ヨコハマのディープカルチャーストリート「元町仲通り」へGO!“)の延長線上に伸びたリセンヌ小路(お酒も楽しめる飲食店等がメインの通り)の先に位置している駅入口です。
イタリア山庭園(公式サイト)をブラフ18番館(公式サイト)側から出て大丸谷坂から下ってくる場合は、坂を下りきった後で右手に郵便局がある交差点を左に折れると、石川町駅のイタリア山方面口へと進みます。
駅構内の階段を降りた後Uターンして向かう方向に出口があること、反対に駅への入口として見た場合にも小さく作られていることなどから、ややわかりにくいかもしれませんが、前掲のように駅構内にはその旨の誘導があります。
写真の右手(下車後であれば、改札を出た後左手)方向に進んだ後、最初の小さい交差点右側に伸びた坂道が、イタリア山庭園(公式サイト)前に向かって伸びている大丸谷坂です。
石川町駅前歩道橋
「JR石川町駅のイメージは?」と問われた時に出て来る解答は、人それぞれ、みなとみらい線沿線区間の根岸線各駅の中では屈指の散り方をすることになるのではないかと思ったりもしますが、山手地区最寄りが売りの一つになっている駅自体は、山の手・山の中ではなく、海へと続く川の上に置かれています。
石川町駅が”山手町駅”ではなかったとしても、それはそれでしっくりくることの根拠の一つに上がりそうな部分ですね。
元町側から石川町駅へと向かう時も、駅が近づくにつれすぐ隣に中村川を見ながら歩くことになるのですが、駅の改札を超えて少し歩いたところには、中村川を渡るための歩道橋(石川町駅前歩道橋)が架かっています。
元町口側から橋を渡る場合、すぐ右手にあるのは石川町駅の駅舎、さらに向こう側には西の橋が架かっていて、
左手には地蔵坂へと向かう道から伸びた、亀の橋が架かっています。
石川町駅前とイタリア山
橋上から元町口方向を振り返ってみると、高台の斜面を形成している法面の上、丁度丘の上の中央部あたりに外交官の家(公式サイト)の三階部分、そのすぐ左隣にイタリア山庭園(公式サイト)のメタセコイア並木が確認できます。
反対に、イタリア山庭園から高台の下を見渡すと、ほぼ真下に石川町駅の駅舎があることが確認できるのですが(歩道橋は駅舎の左側で、正面が関内駅方向です)、改めて、石川町駅・山手地区間の距離感が感覚的に理解できる瞬間ですね。
横浜山手と女子校
周辺一帯が国際色豊かな環境下にあることも石川町駅の持つ個性の一つに当たりますが、”山手地区=欧米列強縁”という点からは、複数の外国人学校共々、来日した宣教師たちの布教・社会奉仕活動と共にあった私塾や教育施設をルーツに持つのが、現在も横浜山手に残る名門女子校です。
“ヘボン式表記”で有名な医師・ヘボン博士から引き継いだ女子生徒を対象として私塾を始めたのが、アメリカから日本に派遣された最初の独身女性宣教師だったメアリー・キダーさんですが、この”キダーさんの私塾”が現在のフェリス女学院のルーツにあたるほか、キダーさんとほぼ同時期にアメリカから来日した三人の女性宣教師(プラインさん、クロスビ一さん、ピアソンさん)が作った女子教育施設”アメリカン・ミッション・ホーム”がルーツになっているのが現在の横浜共立学園、ヨーロッパの女性宣教師として初めて来日したマザー・マチルドさん他四人の女性宣教師が作った女子教育施設がルーツになっているのが、現在の横浜雙葉学園です。
設立年代はそれぞれ明治3年(フェリス女学院)、明治4年(横浜共立学園)、明治5年(横浜雙葉学園)と、いずれも日本の近代教育の黎明期に設立されていますが、東京の”A六番女学校”をルーツとする現在の女子学院(明治3年創立)や、京都の”新英学校及び女紅場”をルーツとする現在の京都府立鴨沂高校(明治5年設立)などと並んで、女子校の中では国内有数の(最古、あるいは最古に近い)歴史を持っています。
余談として、東京の共立女子学園は横浜共立学園とは別の学校ですが、千代田区、田園調布、静岡、福岡にある各雙葉学園、および外国人学校のサンモール・インターナショナルスクールは横浜雙葉学園の系列校(姉妹校)です。
“中華街口”へ
石川町駅前歩道橋を渡る際には、堀川上に架かる橋同様、首都高の高架の下に架けられた橋であることから多少の圧迫感を感じたりもしますが、すぐ真上に架かっているというよりはややゆとりのある交差の仕方になっているようにも感じます。
歩道橋のもう一方の階段は、橋の向こうに見える横浜山手中華学校の校舎がそれとなく示唆している感が無きにしも非ずですが、中華街傍に作られた、石川町駅の中華街口付近から始まっています。
横浜中華街(公式サイト)の中にある横浜中華学院が中華民国(台湾)系の学校であることに対し、横浜山手中華学校は中華人民共和国系の学校であるという相違があります。両校とも華僑(参考:JICA緒方研究所 “華僑とは何か“)の子弟のための学校として始まったという歴史を持っていますが、現在は入学にあたって国籍の規定は特に置かれていないようで、現在も山手地区にあるサンモール・インターナショナルスクールや、つい最近山手地区から本牧地区に移転した横浜インターナショナルスクール同様、日本国籍の日本人であっても入学することは出来るようです。
居留地としての歴史的には、川の向こうの丘の上は旧・西欧列強にゆかりのある地(参考:開港期の横浜山手)、川のこちら側の平地(現在の中華街界隈)は旧・清国や中華民国にゆかりのある地です(参考:簡易中華街史)。
いわゆる”関内”エリアは中村川・堀川のこちら側で(海沿いで開港場・外国人居留地となった一帯で、現在の日本大通りや横浜公園等も含まれます)、幕末期には関所を設けることによって厳重に警備されていた歴史を持ちますが、世界と日本の近代史が凝縮されたような立地・景趣もまた、”ならでは”のものですね(参考:幕末の世相と開港場の治安維持)。
寿地区
加えて、石川町駅の近隣には、戦後(GHQによる接収解除後)になって東京(台東区)の旧・山谷地区、大阪のあいりん地区(西成)と並ぶ”日雇い労働者の町=ドヤ街”として有名になった寿地区があるという点を考慮すると、石川町駅の北口(中華街口)一帯はまた、横浜の戦後史の一側面(影の部分)を担っていることも指摘できます。
ちなみにここでいう”寿地区”とは、旧・吉田新田内に形成された”埋地七ヶ町”に含まれる三町、中区寿町とその両隣にあたる扇町、松影町を中心とする、石川町駅の西側に広がる一帯を指します(”七ヶ町”の他四町は、翁町、不老町、万代町、蓬來町です。参考:公益財団法人 横浜市寿町健康福祉交流協会 “寿地区の紹介“)。
横浜市の中心部で”戦災・接収を契機として大きくその姿を変えることになった”エリアはいくつかありますが、いわゆる寿地区もそのうちの一つです。
元々はその地の利を活かし、問屋街や物流の中心地として栄えていた時期も持っていたようですが、接収解除後の昭和32年(1957年)、公共職業安定所の(野毛地区からの)寿町移転によって、現在の”寿地区”に繋がる流れが作られました。
“ドヤ”の語源である簡易宿泊施設が今でも多数営業されている他、職業紹介施設もボチボチエリア内に残されてはいるようですが、地区全体がひところと比べると”普通の街”化してきているようにも見える上、実は”職安ありきで街が作られた寿地区”自体、過去のものとなっていたりもします。
“寿=ドヤ”と見る場合、その核であった公共職業安定所=ハローワークは平成末(平成27年=2015年)に横浜スタジアム傍の現在地に移転済であり、さらに近い将来には現在地から(新港ふ頭に新たに作られている合同庁舎へ)の移転も予定されているようです(参考:国土交通省関東地方整備局 “横浜地方合同庁舎(仮称)整備等事業“)。
横浜の開港、関東大震災被災、さらには戦災・接収・接収解除と、横浜のはじまりや受難の歴史を契機として二転三転してきた寿地区のあり方も、近い将来また変わっていくことになるのかもしれません。
北口(中華街口)
横浜山手中華学校とJR石川町駅の間には一本の道が伸びていますが、
道の左手に作られた、中華学校のかなり大きい建物の前に、
ボチボチ年季の入ったJR石川町駅の中華街口=北口が用意されています。
石川町駅駅舎の背後にそびえる高層ビルは、”パークスクエア横浜”という23階建てのタワマンですが、一階部分にはフィットネスジムやスーパー、喫茶店など、一般向けの商業施設もテナントとして入居しています。
中華街・西陽門
石川町駅・中華街口(北口)の東側には、”西の太陽に一番近い”ことからその名がつけられたという西陽門があります。
中華街の門に掛けられた扁額の特徴として「外側には”中華街(あるいは通りの名前)”表記、内側には”門の名前”表記」というものがあるのですが、それぞれ石川町駅に向かう側には”西陽門”、石川町駅側には”中華街”と表記されています。
つまり感覚的には、北口を出るとほぼすぐのところで”ようこそ中華街へ”となっているのですが、石川町駅前の西陽門から中華街の西門にあたる延平門までは、徒歩にして2~3分程度の距離があります(参考:横浜中華街公式サイト “牌楼(門)について“)。
ちなみに、横浜中華街には全部で10基の門が作られているのですが、その内訳は、中華街内に9基、残る1基が西陽門です。
石川町駅北口(西陽門前)から中華街までの道沿いには、西陽門建設と同時に作られた6基の街灯が花を添えていますが、
根岸線の高架を背にして、首都高横羽線の高架をくぐると、
ほぼすぐのところに中華街の西門・延平門が置かれています。
門の両サイドは横浜市立みなと総合高校(左)、横浜市立港中学校(右)で、延平門の先は、道なりに中華街大通りへと伸びた西門通り(海河-かいが-道)です。
近隣施設
元町中華街エリアに準じます。