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【横浜観光FAQ/簡易中華街史その4】”昔”の中華街と、今の中華街

横浜中華街

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【横浜観光FAQ/簡易中華街史その4】”昔”の中華街と、今の中華街

横浜中華街の今昔

“中華街史”概略

第二次世界大戦の戦災からの混沌としたスタートを余儀なくされた横浜中華街公式サイト)の”戦後”は、時勢のバックアップ(根岸線開通、中国ブーム、ハマトラブーム、バブル景気、みなとみらい線開通etc)を受けた急成長と、反対に時勢がかけた”急ブレーキ”(バブル崩壊、失われた〇〇年への突入)の影響を相次いで受けることとなったという形で、さらなる激動を相次いで経験することとなりました。

参考:戦後横浜の”南京町”と横浜中華街

既述のように、中国ブーム/ハマトラブーム(70年代前半/末期)~バブル景気(80年代後半)まで、概ね15~20年弱の急成長の延長で、80年代末期には観光地としての横浜中華街が円熟期を迎えます。

89年の年末には日経平均が史上最高値を記録するなど、日本経済の好況もピークを迎えるのですが、90年代に入るとほどなく”バブル”が崩壊します(91年)。

以降、日本経済は”失われた〇〇年”(2024年現在、〇〇は、10~30まで、10年刻みで諸説用意されています)と呼ばれる低迷期に突入していくことになるのですが、横浜中華街もそのあおりを受ける形で、90年代に入ると空き店舗が目立つようになりました。

この時に中華街の空き店舗を埋めていったのが、後に中華街名物となる”占い”です。

“占い”という商売自体が(飲食店に比べると)景気に左右されづらく、かつ元手もそれほどかからないということで、”不景気”を逆手に取る形で浸透し、やがて新たな中華街名物へと成長を遂げることとなったのですが、90年代以降の中華街では、この一事に象徴されるような根本的な変化も起こっていました。

“グルメタウン”のマイナーチェンジと、現在の横浜中華街

バブル崩壊後の中華街では、”バブル”の影響を受ける形で増加した”新華僑”(新しい華僑)たちによる新店の立ち上げが、”老華僑”(古くからの華僑)たちの商売を凌駕するようになっていきます。

不景気や後継者不足といった理由から閉業が増加した老華僑のお店に代わって、空き店舗にて次々開業する新華僑のお店、という形でのマイナーチェンジの時を迎えることとなったんですね。

「稀代の好景気が、一転して大不況となった」というやむにやまれぬ事情から”グルメタウン・横浜中華街”の表向きの毛色が変わる時期が到来したのだということで、昔(昭和後半)の中華街をよく知る年配の方がしばしば口にされる(こともある)「今の中華街は云々」(≒本当に旨い店がなくなってしまったのが寂しい)という中華街評の根拠となる状況が創出されることとなりました。

以降、“安売り店”や”深夜営業店”の増加が主流となり、なおかつ、占いに代表されるような”華僑外”のビジネスが生まれることとなる流れが作られるのですが、その後00年代に入ってみなとみらい線が開通すると、”安売り”に”食べ放題”(オーダーバイキング)が主流となる流れが加わって、”食べ放題”や”食べ歩き”が万人向けのイチ押しとなる、”現在の横浜中華街グルメ”が出来上がります。

よく言えば「新華僑たちの”ビジネスに特化した出店”が、バブル崩壊後の中華街で新しい流れを作り、結果不況に対応した」ということで、マイナス面に着目すれば「そこに軽微な歴史の分断が出来てしまった(同じグルメタウンとはいっても、やや趣を異にする面が生じてしまった)」といった面も持ちますが、結果として”中華街のマイナーチェンジ”は横浜中華街に新たな魅力の創出をもたらしました。

バブル崩壊後の不況真っ只中にあった平成期には、中華街内部でのマナー違反の増加等、当局の介入を必要とする場面が増えた時期もあったようで、令和以降でも、例えば日本最古の中華料理店・聘珍楼が閉店するなど寂しいニュースもありましたが、その一方で今も残る老舗店があれば、反対に意欲的な新規店が開業したりもしています。

70年代から80年代にかけての急成長、バブル崩壊後の”失われた”時代、2004年のみなとみらい線開業等々を経て、現在の横浜中華街は今日も賑わっています。

※ 中華街史について、参考:山下清海「横浜中華街」筑摩選書(2021.12.15)他

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