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【横浜観光FAQ/簡易中華街史その3】戦後横浜の”南京町”と横浜中華街

横浜中華街

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【横浜観光FAQ/簡易中華街史その3】戦後横浜の”南京町”と横浜中華街

戦後の国際情勢と、混乱期の南京町・中華街

参考:20世紀の国際情勢と横浜の”南京町”

第二次世界大戦終戦後、”南京町”では”台湾支持派”と”大陸支持派”の対立が激化し、その争いは中華学校の分裂(台湾系の横浜中華学院が現在の中華街に残留し、大陸系の横浜山手中華学校は中華街の外へと移転します)をもたらします。

その後も激しい対立が継続した後で、1990年の関帝廟設立をきっかけとして双方が協調関係を築き上げていくこととなるのですが、華僑たちの生活が長らくに渡って日本に定着してきたことや、台湾支持派が台湾出身者に限られなかったこと、さらには日中国交正常化を機として日本への帰化者が増加したことや”中国ブーム”が到来したことなど、”きな臭さ”を解消するに足るだけの材料が多々生まれたことも、現在の”横浜中華街”を作り上げるに足る土台となりました。

全ては”第二次世界大戦の戦禍を被った横浜”の上に築かれることになったということで、戦災からの復興と昭和の発展は、戦前のそれとはまた違った要素が絡みつつ進んでいきます。

戦後混乱期の”南京町”

横浜中心部にあって、戦後混乱期の南京町=現在の横浜中華街が特異だった点としては、中華民国が第二次世界大戦の戦勝国であったため、GHQによる施設や土地の接収を逃れることが出来たという点を挙げることが出来ます。

この点については中華街の公式サイトにも記載がありますが(参考:中華街がグルメの街になったワケ)、戦後は早い時期から意のままの活動をすることが比較的容易であった、物資についても”連合国”つながりで優先的に配布されたということで、”南京町”には大規模な闇市が形成され、物資不足の日本にあって”モノ”が溢れた状態が訪れたようです。

時の華僑たちは同時期に”闇市”が形成された野毛エリアにも進出していたようですが、やがて日本が主権を回復し(1952年~)、闇市が当局の摘発対象となると、今度は日本へ来航する船員や米兵相手の商売、具体的にはバーやキャバレーなど夜の世界のビジネスが大当たりしたことを契機として、やがて南京町は”夜の街”へと姿を変えていきます。

以降、戦前の”華”があった南京町からは一転して治安にしてもよろしくない地域と化してしまった、そもそも”華”の様相自体がかつてとは異なるものとなってしまったことなどから、一般的な日本人客の人気も下り坂に向かっていったとされていますが、この当時の南京町が持っていた雰囲気には、昭和の日本で隆盛を極めていた映画産業が便乗します。

逆に、荒んだ街並みや退廃的なイメージを”使える”と踏んだんですね。

戦後昭和のヨコハマ

余談ですが、”横浜全般”で捉えた時、どこか退廃的な雰囲気を持つ”伊勢佐木町ブルース”(1968年=昭和43年)や”港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ”(1975年=昭和50年)といった個性的なご当地ソングがヒットしたのもこの時代(1960~70年代)の話しで、やはりこの二曲についても、後に曲イメージを原案とした映画が公開されています。

ご当地ソングやその映画化の実態にも典型が見て取れますが、どこか荒んだ空気と共にある尖ったイメージで語られる機会が増えたのも”戦後の横浜”の特徴の一つにカウントできるところで、やがてこの流れは”女性誌発の新しい流行”(後述)と絡み合いつつ、80年代~90年代の”ヤンキー漫画”の世界などへと引き継がれて行きました。

荒んだ、あるいは尖った横浜が登場する作品は枚挙に暇がありませんが、比較的新しいところでは、プレイステーションの人気ゲーム”龍が如く7”や通称”キムタクが如く”(LOST JUDGMENT)の世界が描く横浜も、基本的には同系統のものですね。

文明開化華やかなりし時代の只中にあって、メモリアルイヤーを祝して作られた”横浜市歌“や、その時代の匂いがまだ残っていたとも取れる時代(1947年=昭和22年)に作られた”港が見える丘”(YouTubeより。当時の横浜イメージも含まれていると言われている歌で、”港の見える丘公園“内には歌碑も置かれています)などと比べると、双方の違いが鮮明になってくるところでもあります。

あれが横浜ならこれも横浜、といったところですが、”横浜の南京町”にしてもそのご多分に漏れず。中心部の他エリア共々、ステレオタイプな”戦後のヨコハマ”の一部を形成することとなりました。

“南京町”から”横浜中華街”へ -善隣門の建設-

その一方で、日本が独立を回復し、横浜中心部の接収地が返還され、高度成長の波にも後押しされる形で戦後復興が軌道に乗ってくると、戦後の混乱期一流だったといえるような”南京町”の荒んだ空気の中からも、やがて現在の”横浜中華街”へと繋がる流れが生まれ始めました。

その第一歩として、昭和30年(1955年)、南京町内部に後の善隣門に当たる牌楼門が建設されます。

当時すでに世界的な観光スポットとして高い人気を誇っていた、サンフランシスコのチャイナタウン(公式サイト)を模した南京町の観光地化がプランされた時、”本家”にあたるサンフランシスコのチャイナタウンに先んじで行われた牌楼建設で、扁額には”中華街”と記されました。

横浜の人間には南京町、隣接する東京の人間には支那しな町、華僑の人たちには唐人町と呼ばれていた(長崎の新地中華街傍では、江戸時代の中国人居留地跡の”唐人屋敷”が今も史跡として残されています)という”それ以前”との比較では、”中華街”という呼称自体が類例のないものではあったようですが、この”中華街”表記をきっかけとして”南京町”から”中華街”へと、呼称自体が緩く変化を始めます。

横浜元町と中華街 -1970年代以降の横浜中華街-

“ニュートラ”ブームと”ハマトラ”ブーム

“オイルショック”を境として戦後の高度成長が鈍化し、安定成長期へと繋がっていった1970年代。横浜と同じ港町である神戸を起点として、女性ファッション誌が仕掛けた”ニュートラ”ブームが起こりました。

ニュートラとは”ニュー・トラディショナル”(それまでの伝統的スタイルを踏襲した、新しいファッション)のことで、DCブランドファッションなどと言い換えることも出来ますが、バブル期の日本で一世を風靡した”コンサバ”ファッションの前に位置付けられるスタイルのことです(参考:JJ公式サイト “70年代ファッションを振り返り! 一世を風靡した「ニュートラ」を解説“)。

“コンサバ”とは、語義的にはコンサバティブ=保守を意味していますが、”ニュートラ”に始まった高級ブランドファッションの延長上にあることから、”コンサバ”と称されています。

“西の横浜”である神戸発のニュートラが隆盛を極めていた頃、横浜では「横浜ならではのニュートラ」=横浜トラディショナル、略して”ハマトラ”と命名されたファッションが、同じく女性ファッション誌によって仕掛けられました(参考:JJ公式サイト “70年代に流行した「ハマトラ」を解説! 横浜発・正統派お嬢様スタイル“)。

ニュートラ・ハマトラ共、仕掛けは女性誌、ブームをけん引したのも当時の若い女性たちですが、最終的には性別を超えた流行となったようです。

“中華街”と”元町”の相乗効果

ニュートラやハマトラが流行していたころの事情として、今ほど物流が発達していなかったことが挙げられますが、関連のファッションアイテムを入手するためには現地(”ハマトラ”であれば元町商店街)に赴くよりほかないとなれば、ブームの規模は今現在以上に人流の規模に直結することとなります。

“足”の利便性が高ければ高いほど、よりダイレクトな集客効果が見込めたということですね。

この点、”ハマトラ”ブームの追い風となった事情として、1973年の根岸線(元町や中華街の最寄り駅は石川町駅で、開業は他みなとみらい線の沿線駅同様、1964年です)全線開通を挙げることが出来ますが、国際情勢の顛末から成立した日中国交正常化をきっかけとする”中国ブーム”は、1972年を起点とします。

1970年代から80年代にかけての横浜では、”ハマトラブーム”が中華街にもお客さんを呼び、反対に”中国ブーム”が元町にもお客さんを呼んだという形で相乗効果をもたらすのですが、横浜中華街に隣接する横浜公園横浜スタジアムのこけら落としが行われ、それまで川崎球場を本拠地としていた大洋ホエールズが”スタジアム”を本拠地とする”横浜大洋ホエールズ”となったのも、やはりこの時代(共に1978年)のことです。

市電に変わる足としての根岸線開通、ニュートラブームから派生したハマトラブーム、”ニクソン訪中“をきっかけとする日中国交正常化、”ハマスタ”完成とホエールズの横浜移転、全て別の動機で発生したそれぞれの動きが奇跡的に被った結果、それが起爆剤となって発展が促進されたという形ですが、その一連の流れに”ダメ押し”をしたのが、80年代後半に発生したバブル景気ですね。

この時代以降、戦後の混乱期には迷走をしていた横浜中華街は現在のようなグルメタウンへと変貌し、定番観光地として急成長を遂げていくのですが、やがて”ハマトラ”や”ニュートラ”が”コンサバ”という別名称のスタイルとなっていった時代になると、日本国内はバブル景気の時代に突入し、”観光地・横浜中華街”も円熟期に入って行きました。

円熟期とは要するに、”観光地化”に拍車がかかり、より洗練されて行く時期を迎えることになったということですが、扁額に”親仁善隣”の言葉が掲げられ、”牌楼門”の名称が”善隣門”に改められたのは、バブル景気がピークにあった1989年(平成元年)のことです。

参考:中華街公式サイト “牌楼(門)について“、『横浜タイムトリップガイド』(講談社、2008.9.27)他。

※ 中華街史について、参考:山下清海「横浜中華街」筑摩選書(2021.12.15)他

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