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【横浜観光FAQ/簡易中華街史その1】旧・中国人居留地と”横浜の南京町”

横浜中華街

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【横浜観光FAQ/簡易中華街史その1】旧・中国人居留地と”横浜の南京町”

旧・中国人居留地と”横浜の南京町”

ことはじめ

横浜開港時、”安政の五か国条約“締結相手国の居留民の中国人通訳(厳密には”買弁ばいべん”と呼ばれた仲介商人)たちや、欧米人の下で下働きをするため来日していた中国人たちは、列強の居留民同様に、日本国内における生活拠点=居留地を必要とします。

列強にとっての本命条約であった”修好通商条約”が締結されたことによって、中国人居留民たちもまた、日本国内に外交・交易を推進するための生活拠点を必要としたためですね。

現在の山下町山手町にイギリス・フランスをはじめとする海外居留民の交易拠点や居留地が作られた頃(参考:開港後の山下町(外国人居留地)の発展横浜山手の近代と”港の見える丘”)、当時の中国人たちは、旧・吉田新田内部(現在の山下町エリア)に作られた開墾地である横浜新田を利用する形で、居留地を形成しはじめました。

この中国人居留地こそが、現在日本三大中華街の一つにして日本最大の中華街である、横浜中華街公式サイト)の原点となった街です。

条約締結地傍に設けられた開港地傍の一等地(山下町の一部や、山手町)を軒並みイギリス・フランス等に抑えられた後、中国人居留民たちは残った土地(同じく旧・吉田新田内部に作られた山下町内でも、旧・横浜新田跡地にあたる低湿地帯)を居留地にせざるを得なかったという事情もあるのですが、この辺りからは当時の国際社会での”列強比”の序列が垣間見えてくる部分でもありますね。

ともあれ、中国人の買弁や労働者たちは、やがて”横浜新田跡地”から始まった居留地を拠点として、一大華僑社会を形成していくことになります。

最終的に、東の横浜・西の神戸が大陸から渡航する華僑にとっての渡航先の双璧となったようですが(明治中期には、中国大陸での武装蜂起に失敗した孫文が横浜の華僑社会へ亡命しますが、横浜の華僑社会も亡命中の孫文を献身的に支援しました)、当時の横浜中華街は、横浜の人間には南京町、隣接する東京の人間には支那しな町と呼ばれていたようです。

中華街の区画

“周辺一帯の区画に対して、およそ45度の角度を形成するように作られている”という独特の区画については、”横浜新田(旧吉田新田内部の低湿地帯)”のあぜ道が居留地の区画にそのまま用いられた結果のものだ(古地図との比較検証によっています)という点が指摘されている他、”街づくりに風水を用いたことによっているのだ”(敢えて、後からこの形に作り直した)という俗説も残されています。

仮に「新たに居留地を形成していくにあたって、横浜新田の形をそのまま残して街づくりをすることが風水的にも優れた判断だった」と結論付けられたような理由・形跡がどこかに残されているのであれば、その時には”どちらも正解です”という話しになりそうではありますが、横浜中華街の公式サイトでは

『じつは海岸線にあわせた横浜の街路は東西南北に沿ってはおらず、一見斜めに見える、このエリアこそが方位に忠実なのです。風水を重んじる中国人が、新天地で拠点を探す時、東西南北を気にしなかったと考える方がむしろ不自然なこと。偶然にも方位に即したこの土地が拓かれたことが、中華街誕生の第一歩となったのです。』

(『』内、横浜中華街公式サイト “なぜ中華街の道は斜めなのか?“より引用)

として、この説を肯定しています。

風水に合わせて一から街を作り直したのではなく、元々風水の理に適うように作られていた区画をそのまま利用したのだ、ということですね。

明治・大正期の発展と昭和の停滞

横浜での通商開始後の中国人居留地(=現在、横浜中華街が置かれている地)は、同地での華僑社会の発展と歩みを合わせる形で賑わいを見せるようになりますが、その様子は良くも悪くも時の日本人の注目を集めていたようです。

時あたかも、現在の山下公園横浜市公式サイト)付近に作られた山下居留地や開港場が華やかな歩みを見せていたころの話しですが、関東大震災(大正12年=1923年9月1日発生)の直前期には、後の”横浜中華街”の原型を思わせるようなスポット、つまりは当時の横浜の人気エリアの一つに数えられるまでになっていたようです。

ですが、首都圏が大正末期から昭和一桁年代(1926年~34年)にかけて関東大震災からの復興を遂げた後、昭和前半の日本は中華民国(=当時の世界で国際的に承認されていた中国)を相手として日中戦争を戦います(昭和12年~20年=1937年~1945年)。

この時期には日本国内共々”南京町”自体の発展もしばしの停滞を余儀なくされ、発展の機会は終戦後に持ち越されることとなるのですが、”南京町”にとっての受難はここでは終わらず、日本が復興へと歩みを始めた区切りの年である昭和20年=1945年を境として、今度は中国大陸で新たな戦争が始まりました。

※ 中華街史について、参考:山下清海「横浜中華街」筑摩選書(2021.12.15)他

20世紀の国際情勢と横浜の”南京町”

別記事にまとめました。

横浜中華街・アクセス

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