移築された文化財と”その時代” -内苑地区と、天下人の跡-
臨春閣、亭榭と周辺風景の行間
内苑地区と安土桃山時代
三渓園・内苑地区に移築された臨春閣は、それ自体は17世紀に作られた建築物ですが、三渓園への移築にあたっては”聚楽第”(関白時代の豊臣秀吉の自宅兼政庁)だと目されていたという見方もあるようです。
その向かいに架けられた小さな橋・亭榭については、秀吉ゆかりの”観月台”がモデルとされました。
総じて、天下統一前夜の雰囲気再現が意図された一帯だ、という形ですね。
参考
聚楽第と高台寺 -天下統一前夜の光と影-
秀吉は、実子にあたる秀頼誕生後、元々後継と目していた姉の子・秀次の扱いを一変させると最後には切腹を命じ、秀次の死後には、かつて関白の地位と共に秀次に与えた”聚楽第”を破壊します。
乱世の倣いとして、後に禍根を生じそうなもの全てを跡形もなく消し去るために、という対応ですね。
豊臣秀吉没後の徳川家康も、元の主であった秀吉に負けず劣らずドライな一面を見せていますが、”太閤”亡き後即座に自身の挙動を”五大老筆頭”から”天下人”モードに切り替え、秀吉の後継にあたる秀頼とその周囲を包囲していくと、ほどなく天下分け目の関ヶ原の戦いへと向かい、さらには満を持す形で”大坂の陣(冬・夏)”へ進むこととなりました。
この辺りの冷徹さや割り切り方、さらには実行力こそ、天下人の天下人たる所以にあたる部分なのかもしれませんが、その一方で天下統一後の徳川家康は、秀吉の正室だった高台院(北政所・ねね)による”高台寺(観月台)建造”を後援します。
高台寺は、高台院(ねね)が秀吉の慰霊のために創建したお寺ですが、秀吉への供養を怠らなかった高台院がこのお寺を(家康の支援の下で)創建したのは、江戸幕府開府(1603年)の3年後、1606年のことです。
”大坂夏の陣”にて秀吉の後継にあたる秀頼、および秀頼の母にあたる秀吉の側室・淀殿が共に自刃し、戦国大名・豊臣家が終焉の時を迎えることとなったのはその約10年後(1615年)のこと、同年には江戸幕府が諸大名の統制のために武家諸法度を制定し、かつ”禁中並びに公家諸法度”によって朝廷や公家の権力を形骸化しますが、さらに転封や改易、あるいは”宝暦治水”と呼ばれる治水事業を外様大名(薩摩藩)に命じることなどを通じ、対抗勢力(特に、外様の有力大名)の力を削ぐことに尽力します。
これらの政策が奏功する形で”徳川”の世は次第に盤石なものとなって行った、表現を変えると、群雄が割拠した激動の時代は終わりの時を迎えることとなりました。
以降、およそ270年に渡る天下泰平の時代が訪れることとなった形ですが、高台院(ねね)その人については、幕政がさらなる安定へと向かっていった1624年(三代将軍、徳川家光の治世です)、”豊臣”の終わりを見届け切ったかのように、京都御所付近の”京都新城”にて息を引き取ります。
“天下人”徳川家康が75歳で没した(1616年)8年後のこと、豊臣秀吉の逝去(1598年)からは既に四半世紀以上の時が経過していましたが、太閤亡きあとのねねが生きたという、”たかが”とはいえ”されど”の四半世紀は、”それ以前の日本”が”現在の日本”に大きく近づいた25年でもありました。
絶対王政期の西欧各国と対等に渡り合い、かつ乱世に幕を引いた天下人である”豊臣””徳川”の遺産の一部が、開国・開港によって急成長を遂げた港町・ 横浜の一角にて巡り合う運びとなったあたり、なんとも不思議な縁も感じさせますが、生糸の貿易商・実業家として文明開化の先端に立ち、進取の気風の中に生きた原三渓さんが(天下人達の”遺産”を通じて)ここに表現したかったものが、なんとなく浮かび上がってくるように思えたりもしますね。
参考
月華殿と伏見城
月華殿は17世紀初頭の京都・伏見城にあった大名来城の際の控え所(1603年築)、天授院は鎌倉五山・建長寺近くに置かれていた地蔵堂の建物(1651年築)です。
共に、国指定重要文化財となっています。
かつて月華殿が置かれていたとされる伏見城は、豊臣秀吉が聚楽第を甥(姉の子)の秀次に譲った後、隠居先として造った屋敷を原型に持つという、”天下人”ゆかりの城です。
秀吉から関白の地位と共に聚楽第を譲られた豊臣秀次は、元々は秀吉の後継争い筆頭にいながら、秀吉の実子・秀頼(側室である淀殿の子)生誕によって疎まれるようになり、最期は叔父である太閤・秀吉によって切腹を命じられてしまうという、中々の悲劇の人ですね。
関白・秀次の切腹後、秀吉はかつて自身が秀次に与えた聚楽第を破壊することとなるのですが、その際、「秀頼が生まれたのであれば大阪城は秀頼に与える」「そうなれば、伏見の屋敷は城にしなければならない」ということで、屋敷は城へと再建され、伏見「城」になりました。
そんな伏見城ですが、秀吉の没後一時的に家康の居城となった後、政治の中心が家康と共に大阪城へ移ったことや、やがて京における幕府の拠点が二条城におかれたことから、徳川幕府開府後ほどなく(1619年)、廃城とされました。
参考
- 建長寺公式サイト
- 【鎌倉五山/第一位】建長寺
- フィールド・ミュージアム京都 “伏見城“
- 聴秋閣
- 【三渓園/内苑地区】臨春閣と身代わり灯篭
- 【三渓園/内苑地区】亭榭
聴秋閣にまつわる人間模様 -徳川家光と春日局-
三渓園・内苑地区に移築された聴秋閣は、徳川家光、および春日局ゆかりの建築物だと言われていますが、江戸幕府の三代将軍、徳川家光の乳母を勤めた春日局と徳川将軍家との間には、ときに摩訶不思議な縁が取り沙汰されることがあります。
斎藤利三の娘・お福と徳川家の縁
徳川家光の乳母・春日局は、明智光秀に家臣として仕えた戦国武将・斎藤利三の娘で、幼名を”お福”と言いました。
明智光秀といえば、”本能寺の変”で主君・織田信長に謀反を起こし、”三日天下”と言われた約10日間の天下を取った後、山崎の戦にて後の”太閤”である羽柴秀吉に討たれてしまうという、どこか儚いイメージを持つ戦国武将ですね。
いわゆる”三日天下”を儚いと捉えるか自業自得と捉えるかについては、明智光秀、織田信長、豊臣秀吉の人となり、あるいは治世に対して、それぞれどのようなイメージを持つかによって変わって来そうなところでもありますが、史実としては、山崎にて光秀を討った秀吉がまずは一気に天下人へ近づいていき、最終的には関白(1585年)、太政大臣(1586年)から太閤(1591年、秀吉の姉の子にあたる、甥の秀次が関白就任)へ昇り詰めました。
しかし秀吉逝去(1598年)の数年後には、早くも(?)、豊臣家ではなく徳川家が主体となった江戸幕府が成立します。
その江戸幕府で三代将軍となった開祖・家康の孫、徳川家光の乳母に抜擢され、後に大奥の中心人物となっていくのが、かつての敗軍の将・明智光秀の家臣(斎藤利三)の娘、お福こと後の春日局でした。
参考
明智家と徳川家
「織田信長に反旗を翻した代償として羽柴秀吉に討たれたのが明智光秀であり、その羽柴=豊臣秀吉亡き後の豊臣家を滅亡に追い込んだのが徳川家康だ」ととらえるのであれば、元々明智家と徳川家の間には、そこはかとなく”敵の敵は味方”風につながりそうな縁が存在します。
とはいえ、いくら”それっぽい縁”があったとしても、徳川幕府は関ヶ原の戦いの勝敗によって土台が築かれた政権です。藪から棒に徳川家と明智家・斎藤家の(秀吉による天下統一前の)関係を思わせるような人事が持ち上がること自体が、不自然といえば不自然な話なんですよね。
ちなみにお福=春日局の父である斎藤利三は、明智光秀が討たれたとされる山崎の戦いの後、秀吉軍に捕縛され処刑されたといわれていますが、世が世であることを含めれば、ことと次第によってはお福自身が父親同様の末路を迎えたとしても、それはそれでおかしくはないところではありました。
この点、例えば大坂夏の陣の後、秀吉の実の孫にあたる天秀尼が徳川家に救われたというケースがあったように、”義理の縁によって命を救われた”という類の話であればまだなくはない話しではありますが、そもそもお福の場合、そこに義理の縁があったことによってどうこうしたという話しでもありません。
「かつての敵方武将の縁者が、幕政の安定と共に中枢に取り立てられ、やがて一大勢力を築き上げることとなった」という、いわば異例中の異例にあたるような大抜擢なので、たまたま偶然そうなったと捉えるにしては、少々(?)無理がある話しでもあるんですね。
「その抜擢の根拠となるだけの”何か”」がなければそうはならないだろうということで、”お福=春日局”の抜擢には、単なる奇遇を超えた”必然”か、あるいは人知を超えた天啓のようなものを勘ぐられることがままあるのですが、これらの”謎”あるいは”勘繰り”は、最終的に「山崎で秀吉に討たれたとされている明智光秀は、実は生きていたのではないか」という仮説へと繋がっていきます。
参考
南光坊天海と春日局
春日局の経歴としばしば同列に語られる話として、南光坊天海という、天台宗の僧侶の存在があります。
南光坊天海は、出生や生年、経歴についてはほぼ不明です。
いつの間にか徳川家康のブレーンになっていて、かつ初期の政策に大きな影響を与えることとなったという謎の塊のような人物なのですが、前記した”明智光秀生存説”は、多くの場合、最終的にこの南光坊天海こそが”山崎”後も生きながらえた明智光秀その人なのだという説へと繋がります。
単なる都市伝説なのか、それとも表向き認められていないに過ぎない史実なのか。真実は神のみぞ知るところになってきますが、”そもそも”の話しとして、光秀は山崎の戦いで討ち取られてはいなかったようです。
明智光秀が秀吉相手の戦いで敗軍の将となったことは史実ですが、事後の顛末については”その後死亡した”ことになっているというだけで、処刑されたわけでも首級が確認されたわけでもない、つまりは死亡までは確認されていなかった、やがてそのことを知った家康との間に縁が出来、以降理想を共にする者同士として幕藩体制を固めていくこととなったのだというのが、”明智光秀=南光坊天海説”の主張です。
お福(=春日局)にまつわる謎も、”光秀=天海”説の文脈では「光秀がかつての家臣・斎藤利三の優秀な娘(後の春日局である”お福”)を知っていた。だからこそ光秀=天海の推挙に基づいて家康が重用し、お福は春日局として大奥での実績を残すことになったのだ」という話としてすんなり腑に落ちてきます。
”仮説”やそれに基づく憶測が全て事実であれば、江戸幕府の骨組みは”豊臣家に反旗を翻した徳川家康”が”信長に反旗を翻した明智光秀”と合作で作り上げたものだったのだということで、従来とは随分と違った見方が提唱されることに繋がっていく、なんてこともあるのかもしれませんね。
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