【三渓園/内苑地区】内苑地区と安土桃山・江戸時代

元町・中華街(山下公園)駅
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内苑地区と、天下人の跡

臨春閣、亭榭と周辺風景の行間

内苑地区と安土桃山時代

三渓園・内苑地区に移築された臨春閣は、それ自体は17世紀半ばに作られた建築物ですが、三渓園への移築にあたっては“聚楽第”(関白時代の豊臣秀吉の自宅兼政庁)だと目されていたという見方もあるようです。

その向かいに架けられた小さな橋・亭榭については、秀吉ゆかりの”観月台”がモデルとされました。

総じて、天下統一前夜の雰囲気が意図された一帯だ、という形ですね。

参考

乱世の終焉

秀吉は、実子にあたる秀頼誕生後、元々後継と目していた姉の子・秀次の扱いを一変させると最後には切腹を命じ、秀次の死後には、かつて関白の地位と共に秀次に与えた”聚楽第”を破壊します。

乱世の倣いとして、後に禍根を生じそうなもの全てを跡形もなく消し去ることを目的とした行為だと思われますが、秀吉没後の徳川家康も、元の主であった秀吉に負けず劣らずドライな一面を見せています。

“太閤”亡き後即座に自身の挙動を”五大老筆頭”から”天下人”モードに切り替え、秀吉の後継にあたる秀頼とその周囲を包囲していくと、ほどなく天下分け目の関ヶ原の戦いへと向かい、さらには満を持す形で二度にわたる”大坂の陣(冬・夏)”へ進むこととなりました。

この辺りの冷徹さや割り切り方、さらには実行力こそ、天下人の天下人たる所以にあたる部分なのかもしれません。

”大坂夏の陣”にて秀吉の後継にあたる秀頼、および秀頼の母にあたる秀吉の側室・淀殿が共に自刃し、戦国大名・豊臣家が終焉の時を迎えることとなったのは1615年のこと、同年には江戸幕府が諸大名の統制のために武家諸法度(元和令)を制定し、かつ“禁中並びに公家諸法度”によって朝廷や公家の権力を形骸化します。

さらに諸大名に対する転封や改易、あるいは”宝暦治水”と呼ばれる治水事業を外様大名(薩摩藩)に命じることなどを通じ、対抗勢力(特に、外様の有力大名)の力を削ぐことに尽力しますが、これらの政策が奏功する形で”徳川”の世はより盤石なものへと進化します。

すなわち、群雄が割拠した激動の時代は終わりを迎え、以降およそ270年に渡る天下泰平の時代が訪れることとなりました。

ねねと高台寺 -乱世の余韻-

一方で天下統一後の徳川家康は、秀吉の正室だった高台院(北政所・ねね)による”高台寺(観月台)建造”を後援します。

高台寺は、高台院(ねね)が秀吉の慰霊のために創建したお寺ですが、秀吉への供養を怠らなかった高台院がこのお寺を家康支援の下で創建したのは、江戸幕府開府(1603年)の3年後、1606年のことです。

高台院(ねね)その人は、幕政がさらなる安定へと向かっていった1624年(三代将軍、徳川家光の治世です)、”豊臣”の終わり、乱世の終わりを見届け切ったかのように、京都御所付近の”京都新城”にて息を引き取ります。

“天下人”徳川家康が75歳で没した8年後のこと、豊臣秀吉の逝去(1598年)からは既に四半世紀以上の時が経過していましたが、太閤亡きあとのねねが生きたという、”たかが”とはいえ”されど”の四半世紀は、”それ以前の日本”が”現在の日本”に大きく近づいた25年でもありました。

絶対王政期の西欧各国と対等に渡り合い、かつ乱世に幕を引いた天下人である”豊臣””徳川”の遺産の一部が、開国・開港によって急成長を遂げた港町・ 横浜の一角にて巡り合う運びとなったあたり。

なんとも不思議な縁を感じさせられますね。

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月華殿と伏見城

月華殿は17世紀初頭の京都・伏見城にあった大名来城の際の控え所(1603年築)、天授院は鎌倉五山・建長寺近くに置かれていた地蔵堂の建物(1651年築)です。

共に、国指定重要文化財となっています。

かつて月華殿が置かれていたとされる伏見城は、豊臣秀吉が聚楽第を甥(姉の子)の秀次に譲った後、隠居先として造った屋敷を原型に持つという、”天下人”ゆかりの城です。

秀吉から関白の地位と共に聚楽第を譲られた豊臣秀次は、元々は秀吉の後継争い筆頭にいながら、秀吉の実子・秀頼(側室である淀殿の子)生誕によって疎まれるようになり、最期は叔父である太閤・秀吉によって切腹を命じられてしまうという、中々の悲劇の人ですね。

関白・秀次の切腹後、秀吉はかつて自身が秀次に与えた聚楽第を破壊することとなるのですが、その際、「秀頼が生まれたのであれば大阪城は秀頼に与える」「そうなれば、伏見の屋敷は城にしなければならない」ということで、屋敷は城へと再建され、伏見「城」になりました。

そんな伏見城ですが、秀吉の没後一時的に家康の居城となった後、政治の中心が家康と共に大阪城へ移ったことや、やがて京における幕府の拠点が二条城におかれたことから、徳川幕府開府後ほどない1619年、廃城が決められました。

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聴秋閣にまつわる人間模様 -徳川家光と春日局-

三渓園・内苑地区に移築された聴秋閣ちょうしゅうかくは、徳川家光、および春日局ゆかりの建築物だと言われていますが、江戸幕府の三代将軍、徳川家光の乳母を勤めた春日局と徳川将軍家との間には、ときに摩訶不思議な縁が取り沙汰されることがあります。

明智・羽柴・徳川、三家の因縁と”春日局”

徳川家光の乳母・春日局は、明智光秀に家臣として仕えた戦国武将・斎藤利三の娘で、幼名を”お福”と言いました。

明智光秀といえば、「”本能寺の変”で主君・織田信長に謀反を起こし、”三日天下”と言われた約10日間の天下を取った後、山崎の戦にて後の”太閤”である羽柴秀吉に討たれてしまった」と言われている、どこか儚いイメージを持つ戦国武将ですね。

「と言われている」という言い回しには、そもそも光秀は本当に信長に対して謀反を起こしたのか、その次元に有力な反証(そのこと自体を疑問視する有力説)があることを含めていますが、今はその部分はさておき。

山崎にて光秀を討ったとされる秀吉がまずは一気に天下人へ近づいていき、最終的には関白(1585年)、太政大臣(1586年)から太閤(1591年、秀吉の姉の子にあたる、甥の秀次が関白就任)へ昇り詰めました。

しかし秀吉逝去(1598年)の数年後には、早くも(?)、豊臣家ではなく徳川家が主体となった江戸幕府が成立します。

その江戸幕府で三代将軍となった開祖・家康の孫、徳川家光の乳母に抜擢され、後に大奥の中心人物となっていくのが、かつての敗軍の将・明智光秀の家臣(斎藤利三)の娘、お福こと後の春日局でした。

余談として、江戸幕府を建てたのは、ご存じ徳川家康です。

乱世の最末期に秀吉政権を五大老筆頭として支えていた戦国武将ですが、小牧・長久手の戦い後の秀吉との”同盟”関係には、現在もさまざまな解釈の余地が宿るところとなっています。

そこには決して、通り一遍、手放しの信頼関係があったわけではなかったのだということですが、であれば秀吉没後の家康の立ち居振る舞いこそ、「本能寺」の真相含め、多くの真実を物語る「ホンネ」が顕在化したものだと見ることもできるでしょう。

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明智家と徳川家

お福=春日局の父である斎藤利三は、明智光秀が討たれたとされる山崎の戦いの後、秀吉軍に捕縛され処刑されたといわれています。

世が世であることを含めれば、ことと次第によってはお福自身が父親同様の末路を迎えたとしても、それはそれでおかしくはないところではありました。

一方、江戸幕府初代将軍にあたる徳川家康は、幕政を盤石なものとするためとして、”関ヶ原”後の二度にわたる大坂の陣を経て、豊臣家を滅亡に追い込んでいます。

この点、明智家と徳川家の間には、行きがかり上それぞれの敵となった”羽柴(豊臣)家”を通じ、そこはかとなく”敵の敵は味方”風につながりそうな縁が存在するように見えたりもしますが、かといって徳川幕府は関ヶ原の戦いの勝敗によって土台が築かれた政権です。

藪から棒に徳川家と明智家・斎藤家の縁故を思わせるような人事が持ち上がること自体、不自然といえば不自然な話であるだけに、「かつての敵方武将の縁者が、幕政の安定と共に中枢に取り立てられ、やがて一大勢力を築き上げることとなった」ことについては、いわば異例中の異例にあたる出来事だとも捉えられるところになってくるんですよね。

偶然にしても出来すぎている、と言った感じですが、この疑問は最終的に「山崎で秀吉に討たれたとされている明智光秀は、実は生きていたのではないか」という仮説へと繋がっていきます。

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南光坊天海と春日局

春日局の経歴としばしば同列に語られる話として、南光坊天海なんこうぼうてんかいという、天台宗の僧侶の存在があります。

天海の出生や生年、経歴はほぼ不明です。

いつの間にか徳川家康のブレーンになっていて、かつ初期の政策に大きな影響を与えることとなったという謎の塊のような人物なのですが、前記した”明智光秀生存説”は、多くの場合、最終的にこの南光坊天海こそが”山崎”後も生きながらえた明智光秀その人なのだという説へと繋がります。

単なる都市伝説なのか、それとも表向き認められていないに過ぎない史実なのか。

真実は神のみぞ知るところになってきますが、”そもそも”の話しとして、光秀は山崎の戦いで討ち取られてはいなかったようです。

明智光秀が秀吉相手の戦いで敗軍の将となったことは史実ですが、事後の顛末については”その後死亡した”ことになっているというだけで、処刑されたわけでも首級しるしが確認されたわけでもない、つまりは死亡までは確認されていなかった、やがてそのことを知った家康との間に縁が出来、以降理想を共にする者同士として幕藩体制を固めていくこととなったのだというのが、”明智光秀=南光坊天海説”の主張です。

お福(=春日局)にまつわる謎も、”光秀=天海”説の文脈では

「光秀がかつての家臣・斎藤利三の優秀な娘(後の春日局である”お福”)を知っていた。だからこそ光秀=天海の推挙に基づいて家康が重用し、お福は春日局として大奥での実績を残すことになったのだ」

と解されます。

”仮説”やそれに基づく憶測が全て事実であれば、江戸幕府の骨組みは”豊臣家に反旗を翻した徳川家康”が”信長に反旗を翻した明智光秀”と合作で作り上げた形となるわけですが、ごく単純に、素性不明の”天海”に対して家康が在りし日の光秀を重ねて判断することになっただけだと捉えても、天海はそういう家康の期待にある程度応えることが出来ていたのだ、ということにはなってくるのでしょう。

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