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【鎌倉三十三観音】”縁切り寺”東慶寺(JR横須賀線北鎌倉駅下車、円覚寺傍)

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【鎌倉三十三観音】”縁切り寺”東慶寺(JR横須賀線北鎌倉駅下車、円覚寺傍)

東慶寺

歴史と由緒

about 東慶寺

JR横須賀線・北鎌倉駅傍にある東慶寺(公式サイト)は、1285年、円覚寺を創建した鎌倉幕府第八代執権・北条時宗の妻である覚山尼(かくざんに)によって開山され、鎌倉幕府第九代執権・北条貞時によって開基されました(参考:開山と創建(開基))。

“覚山尼”という法名は、円覚寺を開山した無学祖元が付けたものだといわれています。

東慶寺一流の由緒としては、現在は禅宗(臨済宗円覚寺派)のお寺ですが、かつては縁切りを望む女性のための駆け込み寺=縁切寺だったという歴史を持っている点が挙げられます。1871年の寺社領上知令(いわゆる廃仏毀釈)をきっかけとして、最終的に1902年(明治35年)に尼寺としての役割を終えるまで、東慶寺は約600年間縁切寺として機能してきました(参考:東慶寺公式サイト東慶寺のこと“)。

縁切寺として

結ばれた男女の縁の全てが良縁であればそれに越したことはありませんが、数ある良縁の中に一定数の悪縁が混じっていることもまた、世の常です。かといってそれを女性側から切りたいなどという場合であっても、封建制度(土地を介して主君と家臣が結ばれた主従関係)が社会の仕組みとなっていた時代には、その制度に付随する形の決まり事として、原則として男性側からの意思表示がなければ公式に離縁が成立しませんでした。

その時代の離縁の”例外ルート”にあたるのが、特定のお寺(縁切寺)に女性が駆け込み、かつ三年間寺社での修行を積むという方法です。そうすることによって最終的に女性側からの意思で縁切りが実現したという、そんなお寺として機能していたのが東慶寺でした。

その昔は”出雲にて結び鎌倉にてほどき””悔しくば訪ねてきてみよ松ヶ丘”などと(縁にまつわる願掛けと実情が)川柳で謳われたこともあったようですが、”出雲”とは縁結びの神様である大国主大神(おおくにぬしのかみ)が祀られた出雲大社(公式サイト)、”鎌倉にて”の鎌倉が東慶寺にあたります。

東慶寺・境内

山門

山門へと続く、短いながらもどこか俗世間と隔絶されたイメージを与えてくるように見えなくもない階段と、かといって特に厳ついわけではない、どこか優しいイメージを与えてくるようにも見える山門のアンバランスさ、

双方のイメージの総和に、ぱっと見が伝える東慶寺一流の個性が宿っています。

境内へ

現在の”元・尼寺”東慶寺は、一年を通じて様々な花が楽しめる、紅葉の季節である秋は紅葉が楽しめるお寺となっています。

山門から伸びた参道上には、金仏が置かれていますが、

そのすぐ右手にある本堂前の門の上では葉が色づいています。

なお、東慶寺の旧仏殿は、1907年=明治40年に横浜・三渓園に移築されています。

用堂尼墓所

東慶寺の歴史上大きな出来事としては、後に建武の新政を興すことになる第96代天皇・後醍醐天皇の皇女が、第5世の住職・用堂尼(ようどうに)として東慶寺に入寺(にゅうじ)したことが挙げられます。

後醍醐天皇皇女=用堂尼の墓所は現在も東慶寺内にありますが、以後の東慶寺は「松ヶ岡御所と称され、寺格の高い尼寺として名を馳せる」(東慶寺の由緒書きより)と、室町時代には鎌倉尼五山第二位に列せられました。

東慶寺と天下人の縁

その後江戸時代の東慶寺は、太閤・秀吉の実子である豊臣秀頼の娘(俗名不詳)との間に縁が出来たことによって厚遇を受けるのですが、こと”東慶寺と豊臣家の縁”を東慶寺ではなく豊臣家の歴史として見た場合には、そこにはやや因果な含みが残されていることもわかります。

大坂夏の陣(慶長20年=1615年)後、豊臣秀頼(太閤秀吉の実子)と、”秀頼の娘”の祖母にあたる淀殿(豊臣秀頼の母であり、太閤秀吉の側室)が共に自害したことによって、戦国大名・豊臣家は滅亡しますが、命を救われた”秀頼の娘”は、まずは尼僧として東慶寺に預けられ、後に20世住職”天秀尼(てんしゅうに)”となりました(以下、豊臣秀頼の娘=天秀尼として続けます)。

豊臣家の滅亡が狙われた戦い(大坂冬の陣・夏の陣)後、豊臣家の血を引く天秀尼が救われたのは、徳川幕府第二代将軍・徳川秀忠(徳川家の始祖・家康の実子)の娘・千姫が豊臣秀頼の正室=天秀尼の義母だったという、徳川家と義理の縁戚関係を持っていたことによっています。

若干入り組んでいるようにも、見方によってはやや遠くも見えますが、手短に言うと天秀尼は千姫の養女だったために命を救われたのだということで、豊臣家とも徳川家とも縁を持っていた天秀尼には、鎌倉・東慶寺に新天地が用意されました。

以降、”千姫”との縁は単に天秀尼の命を救っただけでなく、東慶寺が徳川家の厚い庇護を受けることにもつながったようですが、豊臣家と鎌倉の地に縁が出来たのはこの時が初めてではなく、天下統一を目前に控えた”小田原攻め“=小田原征伐(1590年=天正18年)後のことです。

小田原征伐は、鎌倉で代々執権を務めた北条氏相手の戦いではなく、戦国武将・北条早雲を祖とする後北条氏が滅亡した戦いですが、小田原征伐後の秀吉は、当時伊達政宗が支配していた奥州を平定する道すがら、はじめて鎌倉入りしました(鶴岡八幡宮を参拝し、修理を命じるなどしたようです)。

1582年の本能寺の変と同年の山崎の戦い後、大阪城の築城が始まったのが1583年、長宗我部元親を相手取った四国平定、および関白就任が1585年、島津氏を筆頭とする九州の有力大名を相手取った九州平定、および天下統一に向かう秀吉の勢いの象徴ともいえる聚楽第(参考:臨春閣)の竣工が1587年、1590年の小田原攻め・奥州平定を挟んで翌1591年には甥の秀次(参考:月華殿と伏見城)に関白職を譲って太閤となるなど、”鎌倉入り”当時の秀吉は、もはや現実のものとなった天下統一が目前に迫っていたという全盛期にありました。

しかし”鎌倉入り”の約10年後、秀吉の死去(1598年)を契機として”豊臣家による天下統一”は暗転し、”関ヶ原”(1600年)の15年後には、他ならぬ豊臣家自体が滅亡に追い込まれることとなります。

天下人・豊臣秀吉にはじまる豊臣家の滅亡が、時の日本にとっての天下泰平の時代の幕開けにかぶってくるあたり、まさしく盛者必衰の理をあらわす、という展開ですね。

ピークにあった戦国武将が初めて縁を持った”元祖・武家政権誕生の地”に残されたのが”尼寺を任された孫娘との縁”だったという点は、山崎の戦いの相手方・明智光秀の影が見え隠れする初期幕藩体制の態様(参考:春日局と南光坊天海)や、徳川家による東慶寺の厚遇とも併せて、豊臣家にとってはなんとも因果なものだとも取れるところではあるでしょう。

もっとも、”因果”を言うのであれば、秀吉後の世で天下を分けた”関ヶ原”の因果は、その約250年後の幕末期にも(江戸期の外様大名であった薩摩藩・長州藩が主体となって、東西が入れ替わる形で)持ち越されていくことになるのですが、当の東慶寺自体は、江戸期の終わりに至るまで”縁切寺”としての役割を全うしていくことになります。

東慶寺・御朱印

アクセス

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