【街歩きと横浜史】開港都市・横浜の発展と関東大震災

街歩きと横浜史
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明治・大正期の横浜中心部

幕末にスタートした横浜港における貿易の盛況は、やがて地域一帯に大きな飛躍の時をもたらします。

かつて小さな農村・漁村に過ぎなかったという横浜村一帯及びその近隣では、概ね明治の半ば過ぎ以降、特に開港50周年の節目を前後する形で、後に日本最大の政令指定都市となる”横浜市”に向かう成長が始まりました。

横浜開港50周年(明治42年=1909年)

明治42(1909)年横浜港が開港50周年を迎えます。

時の横浜では記念祝祭が開催されると同時に、今や市民にはおなじみとなって久しい横浜市歌が制定され、後に”50周年”を祝した開港記念横浜会館が建設されるなど、街を挙げてのお祭りムード一色となりました。

他の開港4都市(函館、新潟、神戸、長崎に、”和親条約”締結時の下田を含めれば5都市)共々、在りし日の幕府によって国運を賭され、かつ全てが手探りで始まった開港当時を思えば、まさに前途洋々。

市歌曰く”むかし思えばとま屋の煙ちらりほらりと立てりしところ“が、今や”飾る宝も入りくる港“となった―――港町・横浜にとっての開港50周年は、そんな時期に該当します。

今をさかのぼること、100年以上前の話しですね。

参考

市電の開通と”横浜町”の成長

時はやや”50周年”の明治42年から前後することになりますが、まずは明治39(=1906)年

当時の横浜を代表する商人(生糸商人)の一人だった”三渓”原富太郎さんの手によって本牧の地に三渓園が開園すると、その数年後の明治44(1911)年には、本牧原西の橋間を結ぶ形で、横浜電気鉄道・本牧線(横浜市電)が開通しました。

この時に本牧原・西の橋双方を結ぶ形で開通したのが、現在、桜道(=山手エリアに伸びた坂道)沿いからもその本牧側入口を望むことが出来るという、第二山手隧道(現・本牧通りの下り側トンネル)です。

本牧原ほんもくはら駅は、山頂公園の東側で本牧通りを含んで産業道路に隣接する一帯(=本牧原)に設けられた駅、西の橋駅は、現在元町交差点付近で堀川・中村川上に架かっているという西の橋付近にあった駅ですが、二駅のロケーションからは、市電及びトンネルの開通によって、本牧エリアの交通の便が各段に良くなったことが分かります。

以降、開港場の近郊にあたる”本牧”の知名度は向上し、かつエリア一帯の開発もさらに進むこととなるのですが、この一事に典型例が見いだせるように、およそこの時期(明治半ば過ぎ~)を境として、似たような動きが”横浜町”の周辺エリアを巻き込む形で進みます

旧横浜村(=現・中区の中心部のみ)をベースとして開港と同年に誕生した“横浜町”が、現在の横浜市に向かって成長していく動きも然り、概ね”開港50周年”に前後して進むこととなりました。

明治22(=1889)年“横浜市”となった(=市制が敷かれた)横浜町では、その後明治34(=1901)年から昭和14(=1939)年にかけて、段階的に6次に渡って市域の拡張が実施されます。

貿易で富んだ”横浜”が周辺エリアを(行政区分的に)次々吸収していった形ですが、特に昭和2(=1927)年の第三次市域拡張の際には、旧横浜村=横浜町を含む中区の他、4区(鶴見区神奈川区保土ケ谷区磯子区)にて、”横浜市”の区政が開始されました(横浜市〇〇区の誕生)。

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関東大震災と復興事業 -山下公園と元町公園誕生-

大正12(1923)年9月1日、当時の首都の様子を一変させた関東大震災が発生します。

耐震設計などなかった当時(日本国内の建築物に耐震設計が義務化されるのは戦後の話しです)、この震災(大地震と大火災)によって街の様相は激変しました。

まさに被災の直前まで華やかだった開港都市の元外国人居留地は、被災を境としてほぼ全域が廃墟と化し、人的な被害についても深刻だったことが災いする形で、以後約数か月に渡ってその状態が放置されますが、やがて震災からの復興が本格化へと向かいます。

関東大震災被災、および震災復興は、結果的には”それ以前”の横浜が”今現在”の横浜に大きく近づくことになる契機でもあったのですが、その際、復興が“壊滅的な被害を受けた”ことからのものであったために、都市の姿は以前に比して大きく様変わりすることとなりました。

主な変化としては、震災後の横浜には鉄筋の建物が増えたほか、重化学工業の拠点としての発展が目立つようになった、等々。

現在、日本大通りエリアの名物となっている“横浜三塔”がそろい踏みすることになるのも、震災からの復興時の話しですが、これより先、以前の姿とは必ずしも等しくない、新しい”横浜”の成長が始まります。

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横浜公園 -クリケット競技場から野球場へ-

横浜公園内に体育館や音楽堂などが併設され、現在の横浜公園+横浜スタジアムに近い形の”横浜公園球場”となったのも、やはり関東大震災からの復興時の話しです。

横浜公園球場のこけら落としでは、当時既に人気カードとなっていた”早慶戦”の新人戦が行われ、15000人の大観衆を集めたほか、昭和9(1934)年の日米野球では、当時の日本球界を代表した沢村投手や、後に戦後のプロ野球で名監督として名を馳せる三原おさむさん、水原茂さんなどを擁した日本代表チームが、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックを擁したアメリカ代表チームと戦いました。

当時の横浜公園でも日本代表vsメジャーリーグ選抜の試合が一試合行われていますが、その結果はというと、4-21の大敗、この年の日米野球も日本側の16連敗だったようです(※)。

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山下公園の誕生

地震発生から4年後の昭和2(1927)年、グランドホテルの後身である現在のホテルニューグランドが開業し、以降、横浜の新たな名物ホテルとして親しまれることになるのですが、その3年後にあたる昭和5(1930)年

山下町や元町百段のがれき等を利用して作られたという、震災復興の象徴である山下公園が、ニューグランドの正面にて、竣工・開園する運びとなりました。

ところで、横浜開港と共に整備され、貿易港一流の活況を呈していたのが開港以来の山下居留地だったのですが、そのインフラを一瞬にして廃墟にしたのが関東大震災でした。

震災からの復興に当たっては、出来ればかつての姿を残すこと、その上でかつてを偲ぶ要素を含めることに重点が置かれますが、かといってすでに法的に消滅していたかつての居留地そのものを再興させる理由はなくなっていたため、結果として、旧開港地・旧居留地は震災前後で別の顔を持つこととなります。

同じ開港都市である神戸(三宮エリア)にはいまだに残されている”旧居留地”が横浜には存在しない理由も概ねこの点に宿っていますが、震災からの復興後の”横浜の旧居留地エリア“では、かつての風情を残す、市民の憩いの場造りが狙われました。

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元町公園の誕生

海外からの輸入品や外国人居留民の生活必需品等が販売される一方、商店街で販売するものを作るための工場も有していたというかつての元町界隈も、関東大震災によって、町全体が壊滅的な被害を受けます。

元町百段のように、震災によって地形そのものが変わってしまう形で消滅してしまった施設もありましたが、その一方で震災から7年後の昭和5(1930)年には、同年に開園した市営元町プールの周辺部を整理する形で、新たに元町公園が開園しました。

開園の翌年には、元町プールの裏側に、元町大弓場が建設されています。

余談として、元町公園の住所について、かつて(1936年=昭和11年まで)山手町だったところが現在は元町一丁目となっているあたり、震災後の同地が元町公園になったことによっているのかもしれません。

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