日本初の鉄道開通へ 2
鉄道敷設前夜の事情
開港後の在り方を50年100年といった時間軸で見た場合、見る見るうちに交通インフラとして全国に浸透・定着していった感のある鉄道ですが、国内初の営業運転開始にあたっては”裏事情”もいくつか存在したようで、全てが最短かつ合理的に進んだわけではなかったようです。
“ポートマン”プランの却下
幕末の不平等条約締結、そして以下に続ける”ポートマン・プラン”。
これらの話しにはいずれも当時のアメリカ合衆国が関与していますが、そもそもアメリカが先陣を切ることによって次々進んでいったという“安政の五か国条約”締結自体、時の日本の足元を見られつつの外交交渉の帰結でもありました。
国際社会で力を持つ国に胸襟を開くということが一体何を意味するのか、それを象徴している形ともなっていますが、元々幕末(慶応年間)以来、幕府には列強の外交官より鉄道敷設計画が幾つも持ち寄られていたため、ただ敷設すればいいのであれば、いつでもできるという状態ではあったようです。
ただし実際に敷設するにあたっては、少々の遠回りを余儀なくされています。
日本を絡めた取り決めごとに、所々面倒な話=日本にとって不利益となる取り決めが含まれていたためで、例えば幕府によって最初に裁可された鉄道敷設計画、アメリカ公使館の書記官アントン・L・C・ポートマンさんが提出したプランには、
- 幕府が与えた許可が最後の将軍・徳川慶喜の大政奉還後のことであった
- 鉄道の敷設・経営権をアメリカ側が握ることになっていた
という問題点が含まれていました。
この場合、特に後者の条件に(今の世から今の世の常識で振り返るのであれば、なんともふざけた)問題があったということになるのですが、幸運にも前者の条件があったために、決断自体を新政府に委ねることが可能になった、という余地が生じます。
新政府として、ポートマンプランが提示する”日本国内でアメリカが鉄道を敷設し経営する”とする希望条件を飲めない場合、幕府が与えた許可を追認(=事後承諾)することは出来ない=契約自体が無効であると捉えることが可能となるため、当然、新政府もこのプランを追認することはしませんでした。
要はスタートでいきなり躓いてしまったということで、鉄道敷設自体は一度お流れとなります。
結果、鉄道敷設に先行して定期航路が栄え、さらには馬車交通や人力車も盛況となったという交通事情が生じることとなりました。
参考
- 横浜開港と日米和親条約、日米修好通商条約(国交樹立と通商開始)
- 【開港都市・長崎の風景】大浦海岸通沿い、二つの史跡(長崎みなとメディカルセンター前)
- 【街歩きと横浜史】鉄道以前の交通手段 -海路と陸路-
“アメリカ山公園”の由来
閑話休題、ということで、余談として。
幻のプランとなった”ポートマン・プラン”を提出したポートマンさんが一時期住んでいたことが縁となってその名が付いたのが、 みなとみらい線・元町中華街駅屋上に位置するアメリカ山公園です。
一帯はかつての山手居留地の一部であり、かつ第二次世界大戦終戦後にGHQによって接収された地でもあるという”アメリカ縁の地”でもありますが、日米間の民間交流が(日台間同様に)世界でも屈指の円満さを持って進んでいる昨今、横浜に残されたアメリカの足跡の一つ一つが持つ”縁”の含み自体が今昔の感に堪えない、というポイントともなるところではありますね。
参考
- みなとみらい線 元町・中華街(山下公園)駅 -駅基本情報、ロケーション、交通案内-
- 【横浜山手の公園/基本情報】アメリカ山公園(元町中華街駅屋上)
- 【街歩きと横浜史】近代横浜の始まり -開港場と周辺エリア-
- 【みなとみらい線沿線さんぽ/沿線今昔】ブラフ講と、山手80番館遺構(元町公園内)
- 【横浜山手の公園/基本情報】港の見える丘公園(元町中華街駅最寄りの”港が見える丘”)
“ポートマンプラン”とR・H・ブラントン
前記”ポートマン・プラン”を巡る交渉の決裂は、最終的には日米間の外交問題にまで発展することになるのですが、この時日本政府のバックには、当時の世界最強国家・イギリスが付いていました。
幕府でもスルー出来なかったプランをなぜ新政府がスルー出来たのかといえば、そもそも“ポートマン・プラン”を廃案とする判断自体、イギリスの土木技術者であるリチャード・ヘンリー・ブラントンさんが提出した意見書に依っていたのだという事情があったためです。
時のイギリスを代表する形となったブラントンさん的にも、何も義侠心のみから日米間に割って入ったわけではなく(もちろん、日本側と対話するにあたっては、それがゼロだったというわけでもなかったでしょうが)、そこでアメリカに突っ走られた挙句、利益がアメリカの独り占めとなった日にはたまったものではないという損得勘定からのものではあったでしょうが、幸運にも英国にとってのここでの損得は日本側の損得と一致していました。
ということで、その後はブラントンさんの意見書の説く方針、およびイギリスの助力を柱とする形で、日本政府主導の鉄道敷設計画が実行に移されます。
ある意味“英国の庇護の下で”とも言えるのかもしれませんが、北清事変(義和団事件)への対処を通じて相互信頼を醸造し、やがて日英同盟締結による国際社会での協同へと進んで行ったという、後の日英関係を思わせる一コマでもありますね。
現在は横浜山手の外国人墓地に眠られている”助っ人外人”エドモンド・モレルさんも、ブラントンさんの提唱したプランに沿って英国から招聘された鉄道技術者ですが、”ポートマン・プラン”が廃案となったころから横浜に在住する日本人商人の間でも鉄道敷設を希望する声が目立つようになると、やがて京浜間の鉄道敷設は現実のものとなりました。
参考
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