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“かつての元町”と、関東大震災
元町公園内(山手本通り側)の史跡
ブラフ講
元町公園(公式サイト)の額坂傍出入口付近には、外国人居留地時代の排水溝である”ブラフ講”の遺構が残されています。
かつての元町公園一帯は谷戸(丘陵地周辺の谷状地)だったため、安全で快適な暮らしのためには、雨水が谷戸に流れ込まないような工夫が必要でした。そこで、レンガ工場や給水場を作ったフランス人、かつて”水屋敷”の主であったジェラールさんによって作られたのがブラフ講だった、という一品ですね。
山手80番館遺構
元町公園・山手本通り沿いに位置するエリスマン邸の裏手には、山手80番館の遺構エリアが残されています。
現在の元町公園一帯は、ジェラールの工場跡地であると同時にかつての居留地の中心部でもあったようで、かつてはこの付近が山手の外国人居留地の中心地であり、学校、病院、劇場、教会など、多くの西洋建築が立ち並ぶ一画だったようです。
学校が多く、教会があり、劇場跡もあるという現在の横浜山手の様子や、かつてこの付近に向かって伸びていたという元町百段の在り方などから、なんとなく推し量れる部分でもありますね。
そんなかつての賑わいは、関東大震災発生によってほぼ灰燼に帰すことになってしまったため、
現在は、エリスマン邸の裏に、
震災によって一変してしまったという、
“かつて”の跡地が残されています。
エリスマン邸に入った後でこのエリアに立ち寄ると、同じく”元・外国人居留地の跡”としてひとつながりで解すことは出来ないという”歴史の断絶”を感じさせられますが、地震そのものの被害もさることながら、その後発生した火災が”震災”に致命的なダメージを与えることとなったという事情を思えば、中々凄惨な”夢の跡”ではありますね。
“かつて”ということでは、付近には”ジェラール瓦”も展示されていますが(参考:元町公園・入口から”レンガ工場跡”エリアへ)、
山手居留地在りし日の”かつて”と、平成のはじめ(平成2年=1990年)にこの地に移築され、以降公園の名物となったというエリスマン邸のコントラストは、今日も”横浜山手”の一画を形成しています。
エリスマン邸裏と元町公園
エリスマン邸のすぐ裏手にあたる位置には、
元町公園について、
エリスマン邸について、
さらにはみなと横浜の主要な史跡について(隣に簡単な周辺地図あり)、簡潔に説明してくれている説明板が置かれています。
中には「何かしらの興味があってここまでたどり着けた人であれば、さすがに既知のことではないかな?」というような情報も含まれているようには思えますが、あるのとないのとでは若干(?)違う、小さな親切ですね。