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【横浜山手の公園】アメリカ山公園(元町中華街駅屋上、元町商店街・見尻坂傍)

横浜さんぽ/観光

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【横浜山手の公園】アメリカ山公園(元町中華街駅屋上、元町商店街・見尻坂傍)

about アメリカ山公園

全国初の”立体都市公園”

アメリカ山公園(公式サイト)は、元町中華街駅のビル屋上に位置し、山手本通り方面へのショートカットになっている公園です。

国や地方によって作られた公園は、行政法(参考:e-gov “都市公園法” 第二条)上”都市公園”と呼ばれますが、アメリカ山公園は、その都市公園の中でも新たに創出された”立体都市公園制度”(参考:e-gov “都市公園法 第三章”、国土交通省 “立体都市公園“)に基づく、全国初の立体都市公園に該当します。

ちなみに立体都市公園とは、建物の屋上や都市公園の地下、あるいは人工的な地盤上など、そのまま地面の上に作られるのではなく、何かしら立体的な地盤の上に作られた都市公園のことです。

「都市公園の健全な発達を図り、もつて公共の福祉の増進に資すること」(都市公園法一条)を目的とする場合、現在の都市計画では、従来なら都市公園にはなりえなかったようなスペースにも都市公園用地として白羽の矢が立つようになった、アメリカ山公園がまさにそのテストケースにあたるのだということですね(参考:横浜市環境創造局環境整備部緑事業課 “立体都市公園制度を活用したアメリカ山公園整備事業について“)。

公園名の由来

公園名の由来は開港間もない時期にアメリカの公使館建設予定地となったことにありますが、実際にはこの地にアメリカ公使館が建設されることはありませんでした。

公使館は建設されず、アメリカ公使館の書記官の居住地となります。

ちなみに、かつて横浜山手が外国人居留地だった時代にこの地に住んでいたアメリカ公使館の書記官とは、日本初の鉄道敷設にあたり、イギリスに先んじて日本に鉄道敷設計画を提案したアントン・L・C・ポートマンです(ポートマンのプランにはいくつかの問題点が指摘されたため、残念ながら廃案となりました)。

時は流れ、終戦直後にGHQに接収された用地が1971年(昭和46年)に日本側に返却されると、みなとみらい線が開通した2004年(平成16年)に、”アメリカ山公園”として整備される運びとなりました。

一帯に広がった元町貝塚の調査が進み、新たな貝塚が発見されたのもアメリカ山公園整備時(2006年)の話ですが、その後横浜開港150周年の年である2009年に一部開園、2012年には全面開園されました。

公園内の様子

山手本通り側入り口付近

山手本通り(外国人墓地傍)側の入り口です。向かって左手に通された坂道が、元町商店街付近と繋がれた見尻坂です。

付近には、公園内の地図や周辺案内図が壁に掛けられています。

公園内へ

山手本通り側入口から公園内に入った場合、

公園の左側には外国人墓地隣の坂道・見尻坂が通されていますが、

元町中華街駅側から公園に入った場合、見尻坂は公園出口の右側方向に位置しています。

公園の正面にはマリンタワーが見えていますが、

公園中央は芝生エリアで、

毎年春はそこそこ人気のある花見スポットとなります。

道沿いの壁には、

開港当時を物語る絵や地図が、

3枚ほど飾られています。

山手本通り側から入った場合には公園奥、元町中華街駅側から入った場合にはエレベーター降りて右手には、

小さめの芝生スペースも用意されています。

元町貝塚について

アメリカ山公園造園時に新たに発見された元町貝塚からの土器の出土状況について、

「もともと元町貝塚として知られていた貝塚は、今回の調査区の外側、南西部の斜面にあり、そのまま保存されることになりました。今回新しく発見された貝塚は、従来知られていた貝塚の北東約30m、尾根を挟んだ北東部斜面にあり、東西7m南北18mほどの規模をもっています。この発見によって、元町貝塚は、南西斜面と北東斜面との、2か所の貝塚から成る遺跡であることがはっきりしてきました。」

「この2つの貝塚から出土する土器は、いずれも縄文時代中期前半(約5,000年~4,500年前)に属するものが中心となり、2つの貝塚は、ほぼ同時期に尾根をはさんで北西と南東の斜面に形成されたものと考えられます。」

「貝層からは、縄文時代前期末から縄文時代中期中ごろまでの土器片が比較的多く見つかりました。主体となる土器は、平塚市の五領ヶ台貝塚から出土した土器を標式とする「五領ヶ台式土器」と呼ばれるもので、縄文時代中期前半(約5,000年~4,500年前)に属し、細い隆起線や半截竹管文(はんさいちくかんもん)・三角形沈刻文(ちんこくもん)などの文様が特徴的です。」

とあります。

土器の他にも様々な出土品があったようですが、およそ以上のように要所がまとめられています。

(横浜市ふるさと歴史財団・埋蔵文化財センター『埋文よこはま21 2010年2月28日号』より抜粋)

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