「3代目横浜駅」の昭和・平成
「横浜駅」の多層構造と横浜史

横浜駅東西口を中心とした周辺エリアは、港町・横浜の開港と共にあったエリアではなく、横浜が巨大都市となった後、特に戦後昭和の発展と歩みを共にする形で、鉄道駅を中心として拓かれました。
「開港エリア近郊の、新興の拠点」といった意味では、みなとみらい駅を中心としたみなとみらいエリアとの類似性を感じさせる一帯でもありますが、「いつまで経っても終わらない工事」が延々揶揄され続けたことについては、「みなとみらい」とはやや事情が異なります。
昭和末以降、ともすると横浜駅の代名詞ともなってきた種々の改修工事については、限られた空間・条件下で都市機能を拡張・更新せざるを得なかった、つまりはすでに県下一のターミナル駅として飽和していた横浜駅ならではの制約に依るところが大であり、「横浜のこれから」が期待されるみなとみらいエリアとは対照的に「これまでの横浜」を総括した結果だったと言えるでしょう。
参考
横浜駅の東口と西口
再開発以来わりとお馴染みとなった風景が続く中央東口方面には、「県下最大のターミナル駅」を感じさせる雑多な西口エリアとは好対照な魅力を持った、「港町・横浜の玄関口」を感じさせる一帯が広がります。
横浜駅東西口の相違は、西口=陸側、東口=海側というロケーションも絡んで生じた相違ですね。
旧東海道や、当時すでに開かれていた「2代目横浜駅エリア」(現・高島町界隈)にも程近かった陸側の西口は、3代目横浜駅開業当初からメインの玄関口と目され、戦後になると鉄道の乗り入れも相次ぎました。
これに対して海寄りだった東口エリアは、海運を絡めた貨物輸送など、長らく裏方的な役割を多く与えられてきたほか、戦後はGHQの接収エリアとなり、かつ港湾関係の権利が複雑に絡み合った状態が延々続きます。
初めから発展が約束されていた西口エリアに対し、そうではなかった東口エリアという明暗がはっきり分かれていた状況に対し、「横浜六大事業」、およびそこにルーツを持つ「みなとみらい21計画」がテコを入れる形でやや遅れた再開発が進んだ結果、現在の横浜駅周辺エリアが生まれることとなりました。
東口の再開発が本格始動したのは西口の再開発(1950年代〜)に遅れること約30年、1980年代に入ってからのことですが、双方のギャップが埋まってからの時間の経過については、今となっては「長くもなく、短くもなく」と言ったところでしょうか。
「横浜六大事業」、「みなとみらい21計画」(以下、MM21計画)、どちらも戦後の横浜再開発プランですが、現在も横浜(特に都心部)の再開発は、これら一連のグランドデザインを継承・発展させる形で継続しています。
余談として、西口再開発には途中から「六大事業」が色濃く関与し、東口再開発には初めから「MM21計画」が指針を与えていた形ですが、現在は「かつての再開発」開始以来ぼちぼち半世紀が経過するという東口が「次の再開発」のターゲットとなっていて、「MM21計画」の下「現状からの再開発」が検討されている途にあるようです。
参考
- 横浜市公式サイト “6大事業の基本理念“
- みなとみらいエリアマネジメント “みなとみらい21の計画概要と個別事業“


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