【街歩きと横浜史】近代横浜の始まり -横浜開港-

街歩きと横浜史
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幕末期の胎動

横浜開港

開港前夜

開港前の横浜(現在の横浜市域の中心部)は、江戸湾沿いに位置している一介ののどかな寒村に過ぎませんでした。

所により干拓地、所により半農半漁、海沿いには砂浜も持っていたという、よくある(どこかステレオタイプな)漁村であり農村ですね。

集落の規模もさして大きかったわけではなく、交通の便も然り。

『横浜市史』などにも、田畑の様子(必要に応じて開拓が進められていたようです)や”五人組”の現実(かなりざっくりしたくくりではあったようです)など、概ね平々凡々とした村の様子を連想させる記述がまとめられています。

言葉を選ばずに言えば、「この時期までの横浜は、国内によくある片田舎の一つに過ぎなかった」ということなのですが、そのあたりの事情が幸いすることになったのか、”江戸湾沿いに位置する、風光明媚な地である“ことも時の横浜村(及びその近郊エリア)の個性の一つとなっていたようです。

当時は当時なりの魅力を持つ村ではあった、ただしそこでいう”魅力”は現在のそれとはまるで異なるものであったという辺り、当時を知らない(=今を生きる、全ての)人間が今は昔として振り返ったとしても、隔世の感を禁じ得ないところです。

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開港へ

そんな横浜村(現在の日本大通りエリアを中心とする一帯です)の近代は、日本の開国を取り決めた日米和親条約の締結、および引き続き(通商開始の為に)締結された”安政の五か国条約”によって、つまり平たく言えば”雲の上の事情”によって一大転機を迎えます。

“人口100万を擁する世界一の大都市・江戸”近郊の港町としては少々(?)寂しかった半農半漁の横浜村に、開港拠点として白羽の矢が立つことになった、要は後の人口370万人都市・横浜へと大化けする機会が訪れたんですね。

“江戸でなければ神奈川”だったはずの開港地は、最終的に横浜へ。

「それでも幕府は、列強を江戸に近づけたがらなかった」という事情とも合わせて、全ては良くも悪くも”地の利の故”のことでした。

当時は開国・開港自体、鬼が出るか蛇が出るかわからない中での決断であっただけに、まさに青天の霹靂へきれきだったといえる大転機ではあったのですが、一旦そうと決まれば後は全てが早かったということで、横浜村では早速、開国と開港に伴った港湾整備、および港を中心とした開港場(外国人居留地や商取引の場)造りが開始されます。

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東西の波止場と運上所、波止場の増設、人工ふ頭の誕生

東波止場と西波止場 -横浜港のはじまり-

開港地に指定された横浜では、まずは貿易のための港=波止場が必要とされました。

ということで条約発効年である1859(安政6)年、“イギリス波止場”と呼ばれた東波止場、その隣に“税関波止場=日本波止場”と呼ばれた西波止場、まずは二つの波止場が作られます。

このうち、イギリス波止場=”東波止場”側の防波堤は、通称で“象の鼻”と呼ばれました。

「強風による高波を防ぐために造られた防波堤が、”象の鼻”のように見えた」ことが命名の由来ですが、このネーミングは現在、開港150周年を機に整備された“象の鼻パーク”に受け継がれています。

古地図によると、開港と同時に”象の鼻”が竣工したわけではなかったようですが、その約10年後、元号が明治に改まった時には、既に”象の鼻”は横浜港にその姿を見せています。

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神奈川運上所の設置

開港地で”波止場”と共に必要となるのは、貿易を管理する機関です。

同じく1859(安政6)年(条約発効年ですね)、現在の神奈川県庁の敷地内に、開港場・横浜で外交事務や関税業務を行う機関として、横浜税関の前身にあたる神奈川運上所が設置されました。

ちなみに運上所のいう”運上”とは、語源に”年貢を上納する”意を含む”運送上納”の略称ですが、時代の変遷と共に、”運上”自体が”納税”あるいは”税”を意味する言葉へと推移しました。

結果、幕末期の港町では、運上所は”税を取り扱うところ”になっていたということで、神奈川県庁本庁舎の敷地内、日本大通り沿いから県庁舎に向かって左端には神奈川運上所跡地の記念碑が置かれています。

県庁の前身ではなく、元はこの位置にあった”横浜税関の前身”としての神奈川運上所跡を記した碑です。

“神奈川運上所”のその後ですが、1868(慶応4=明治元)年に明治政府に接収されて県の機関となった後、1871(明治4)年に管轄が大蔵省(現財務省)に定められ、さらに翌1872(明治5)年には名称が横浜税関へと改められました。

“運上所”から”税関”への名称変更は、通関作業を待つ輸出入品を保管しておく“保税倉庫”の台頭に時を合わせたもので(明治から大正にかけての新港ふ頭に作られた赤レンガ倉庫も、保税倉庫です)、その影響は長崎や新潟などの開港都市をはじめとして、全国へ波及しました。

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フランス波止場、メリケン波止場、新港ふ頭の竣工

横浜が開港した幕末期には、程なく現在山下公園がある地に三本目の波止場(フランス波止場)が作られますが、少し時間を空けて1894(明治27)年にはフランス波止場に続く四本目の波止場として、現在の大さん橋の原型となった”メリケン波止場”(横浜港鉄桟橋)が作られます。

また、メリケン波止場竣工の5年後、1899(明治32)年には、開港場に隣接する貿易のための倉庫街用地・新港ふ頭造成工事が着工し、1917(大正6)年に竣工しました。

この新港ふ頭造成と同時に進んでいたのがふ頭内の整備ですが、1911(明治44)年には赤レンガ倉庫の二号館が、その2年後の1913(大正2)年には赤レンガ倉庫の一号館が竣工し、さらにその翌年1914(大正3)年には日本で最初の湾港荷役専用クレーンである”ハンマーヘッド”が整備されました。

横浜港開港50周年という節目の前後にあたる、開港間もない港町・横浜がただひたすら眩しかった時代の話しですね。

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