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【街歩きと横浜史】近代横浜の始まり -横浜開港-

街歩きと横浜史

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横浜村の開港

元々はのどかな寒村に過ぎなかった”横浜村”(現在の日本大通りエリアを中心とする一帯です)の近代史は、日米和親条約の締結、および引き続き締結された”安政の五か国条約”によって一大転機を迎えました。

当時はまだ交通の便自体に物言いがついたことから「人口100万を擁する世界一の大都市・江戸近郊の港町です」とはとても言い難かったという半農半漁の横浜村に、「国運を賭した開港地」としての未来、つまりは後の”人口370万人都市・横浜市”へと大化けする機会が訪れたんですね。

参考:蒸気船から馬車・人力車へ、東京都立図書館公式サイト “「大江戸」の誕生

相次ぐ条約締結によって開国に続く開港が決まった結果、横浜村では早速、開国(和親条約での取り決め)とそれに続く開港(修好通商条約での取り決め)の確約に伴う形で港が整備され、港を中心とした開港場(外国人居留地や商取引の場)造成が開始されます。

元々開港地として候補に挙がっていたのは東海道・神奈川宿傍にあった神奈川湊だったのですが、時の幕府側が自らの要求を押し通す形で”神奈川”ではなく”横浜”の開港を最終的に取り決めると、貿易のための船を停泊させる場、さらには商取引にまつわる全てを進めていく場の整備が急ピッチで進みました。

参考:神奈川湊と横浜港横浜駅が”横浜”から遠い理由/歴史的な流れ

東西波止場の竣工 -“象の鼻”の誕生-

東波止場と西波止場

開港地に指定された横浜では、まずは貿易のための港=波止場が必要とされましたということで、開港と同時期に”イギリス波止場”と呼ばれた東波止場、その隣に”税関波止場=日本波止場”と呼ばれた西波止場、二つの波止場が作られます(1859年)。

このうち、かつてイギリス波止場と呼ばれた”東波止場”側の防波堤の通称が、”象の鼻”です。

このネーミングが、開港150周年を機に現在の形に整備されたという“象の鼻パーク”に受け継がれることとなるのですが、”象の鼻”の命名は、強風による高波を防ぐために造られた防波堤が”象の鼻”のように見えたことに由来します。

古地図によると、開港と同時に”象の鼻”が竣工したわけではなかったようですが、その約10年後、元号が明治に改まった時には、既に”象の鼻”は横浜港にその姿を見せています。

参考:横浜市公式サイト “横浜港 象の鼻地区(象の鼻パーク)“、横浜市港湾局公式パンフレット “横浜港発祥の地 象の鼻地区

フランス波止場、メリケン波止場、新港ふ頭

その後も貿易規模の拡大に伴って、横浜港は進展を続けます。

貿易港の規模拡大ということでは、程なく現在山下公園がある地に三本目の波止場=フランス波止場が作られ(幕末期)、さらにフランス波止場に続く四本目の波止場として、現在の大さん橋の原型となった”メリケン波止場”(横浜港鉄桟橋)が作られました(1894年=明治27年竣工。参考:about 大さん橋)。

さらにメリケン波止場竣工の5年後、1899年(明治32年)に着工し、1917年(大正6年)に竣工したのが開港場に隣接する貿易のための倉庫街用地、新港ふ頭(横浜市公式サイト “新港ふ頭“)です。

ふ頭内には、現在みなとみらい線沿線の一大観光拠点となっている赤レンガ倉庫横浜ハンマーヘッドなど、当時の最新鋭設備が次々搭載され、横浜港での貿易はさらに活況を呈すようになって行きます。

神奈川運上所の設置

開港地で”波止場”と共に必要となるのは、貿易を管理する機関です。

ということで、開港場・横浜で外交事務や関税業務を行う機関として、現在の神奈川県庁の敷地内に、横浜税関公式サイト)の前身にあたる神奈川運上所が設置されました(1859年)。

運上所のいう”運上”とは”運送上納”の略称ですが、時の幕府によって横浜開港と同時に開港場に設置された神奈川運上所は、のち慶応4年(1868年=明治元年)に明治政府に接収されて県の機関となり、明治4年(1871年)に管轄が大蔵省(現財務省)に定められた後、翌明治5年(1872年)に名称が横浜税関へと改められました。

神奈川県庁本庁舎の敷地内、日本大通り沿いから県庁舎に向かって左端には、跡地の記念碑が置かれています。

まずはこの運上所が取り仕切る急造の”波止場”において近代横浜の歴史が始まりますが、東西波止場の竣工も、神奈川運上所の設置も、いずれも”安政の五か国条約”批准年の1859年(条約締結の翌年)です。

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