三渓園(横浜市を代表する日本庭園。本牧地区、バス利用推奨)

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about 三渓園

本牧地区と三渓園

“三渓”原富太郎さんと三渓園

横浜を代表する日本庭園・三渓園は、生糸貿易で財を成した貿易商、原家の二代目当主である原富太郎さんの尽力によって、1906(明治39)年に本牧の地に開園しました。

庭園名に冠された”三渓”は、その原富太郎さんが文化・芸術活動において使っていた”号”(本名とは別の呼び名)にあたりますが、”三渓”こと原富太郎さんがしばしば若く才能がある画家のパトロンとなっていたことから、かつての原家の住居にあたる鶴翔閣かくしょうかく(後述)は、日本美術院の画家達も出入りする、創作のヒントを得るための場ともなっていたようです。

三渓園や原富太郎さんの持つ縁は、例えば横山大観(画家)、下村観山(画家)、岡倉天心(史家、評論家。東京芸大美術学科の前身である東京美術学校創設に尽力した、日本美術院創設者)といった近代日本美術界のビッグネームとも繋がっていた他、富太郎さんの長男の旧制中学時代の同級生だった縁から、作家になって間もない芥川龍之介が三渓園・富太郎さんを訪れ、感銘を受けたこともあったようです。

原富太郎さんや三渓園に関連する書籍や文書を見ていると、縁が縁を呼ぶ形で文化人や政財界人との間の様々なエピソードが出てくるのも興味深いところなのですが、そのあたりの含みについては、現在の三渓園を見ていても”さもありなん”を感じさせるものが少なからずあります。

参考

三渓園の開園と原家

開国・開港を機に幕末の横浜に出てきたという、埼玉の豪農・原善三郎さんの生糸事業が大当たりしたことが、全てのスタートです。

19世紀半ば過ぎに日本が西欧に対して広く開かれたこと、その際の玄関口の一つに横浜が選ばれたこと、原善三郎さんが開港地・横浜に拠点を据えたこと等々が、三渓園の歴史的には”前史”にあたる部分ですね。

生糸事業を軌道に乗せた原善三郎さんは、以降横浜にて地盤を固め、最終的に衆議院議員から貴族院議員となります。

ということで、後に三渓園が作られることになった地についても、元々は”横浜での原家初代”、原善三郎さんが所有していました。

明治35(1901)年、その善三郎さんの逝去がきっかけとなる形で、横浜での原家の二代目当主・富太郎さん(善三郎さんの義理の孫に当たる方です)主導の造園整備がはじまると、造園整備開始から4年後の明治39(1905)年、”三渓園”が開園します。

余談として、山下公園前にあるホテルニューグランドの現社長の原信造氏、先代社長の原範行氏は、共に原富太郎氏の親族にあたり、ニューグランドでの社長業共々、富太郎氏の事業を継承する形で現在に至っています。

また、上写真は、昔の三渓園に建立されていたという原善三郎さん(横浜での原家初代、かつ三渓園を作った富太郎さんの先代)の像です。現在も三渓園内に写真付きの説明板が残されていますが、関東大震災被災による倒壊後、再建築されることなく今に至っているようです。

参考

開園後の三渓園と、本牧エリア

横浜開港以前の本牧地区(本牧地区=中区内で山手・山下地区の南側に広がる一帯です)は、海岸沿いには風光明媚な漁村あり、内陸部には田園地帯ありという、どこか牧歌的な魅力を持っていたようです。

そんな本牧エリアにとっての大きな転機が、横浜開港と、そのことを遠因に持つ三渓園の開園です。

横浜開港後、横浜港を起点とする貿易が発展の一途を辿り始めた時期、”本牧”は三渓園を中心とした地域開発に歩みを合わせる形で、徐々にかつての姿を変えて行くことになりました。

三渓園が市民に開かれてからの本牧地区は、三渓園開園(明治39=1905年)とほぼ同時期(明治44=1911年)に開通した市電(横浜電気鉄道・本牧線)の影響もあって、三渓園の知名度の高まりと共に歩みを進めることになったのですが、三渓園が開園し、市電が開通したことによって”本牧”の地名はより広く知れ渡ることとなり、一帯の開発も促進されることになった、という形ですね。

三渓園そのものについても、開園当初から今現在の形が整っていたのではなく、開園した後、現在の鶴翔閣かくしょうかくを中心とした造園整備によって徐々に”三渓園”が整っていく形となったほか、現在との違いということでは、開園当初は現在の外苑地区が24時間無料公開されていて、そのことは当時の新聞などでもかなり話題になったようです。

さらに時は流れて第二次世界大戦後の昭和28(1953)年、三渓園の管理が原家から三渓園保勝会へ移されると、その5年後(昭和33年)には内苑地区(原家が三渓園を所有していた時には非公開だった、私邸部分)の一般公開が開始されました。

遊歩道沿いでは、かつての三渓園の姿を来園者に伝えてくれる案内板が用意されています。

明治末の開園期の他、大正期のものも用意されていますが、それぞれの雰囲気がやや異なっているように見える(造園作業が順調に進んでいることを感じさせる)上、現在の様子ともかなり違っていることが分かります。

参考

大池周辺エリア

大池は三渓園の中心部に位置している、大きな池です。

三渓園の内部は、およそこの大池を中心として、

  • 大池の西側:内苑地区(旧原家の私邸エリア)
  • 大池の南側/東側:外苑地区(かつては24時間公開されていたエリア)

という形に区分けされていますが、正門から入って順路に沿う場合、大池を左手に見ながら内苑地区方向へと進みます。

大池と三重塔の景観

三渓園へ入園後、入ってすぐ左手に現れる大きな池が大池です。

池の向こうでは、「およそ三渓園内にいれば、どこにいたとしても大体視界に入って来る」という三渓園名物、国指定の重要文化財・旧燈明寺三重塔も早速視界に入ってきます。

三渓園内の中心に位置する大池には亀や鯉も住んでいる他、順路に沿って歩いていくと、池のほとりには三渓記念館、お茶屋さん、ベンチなども用意されています。

ちなみに大池に住む鯉の群れには中々迫力がありますが、

三渓記念館横の売店では鯉の餌も売っているので、すぐ近くまで寄って来る鯉に餌をあげることが出来ます。

大池横、道の奥には、かすかに鶴翔閣かくしょうかくが見えていますが、大池沿いはそのまま遊歩道になっていて、鶴翔閣への道沿いには松が多く植えられています。

参考

鶴翔閣

大池のほとり、内苑地区の手前には、三渓園が原家の所有だった時代には原家の住まいだったという、横浜市指定の有形文化財・鶴翔閣かくしょうかくが残されています。

“三渓園”の造園整備はここを拠点として始まったようですが、現在、鶴翔閣では施設の時間貸しも行われています。

“本牧エリア”の一角は、三渓園開園以来の時間の経過の中、”ただ牧歌的な風景の一部”から”見るも見事な日本庭園”へと姿を変えていくことになるのですが、一方で三渓園の周辺エリアについては、時機に即した都市開発が淡々と進められつつ、今に至っています。

積み重ねられてきた時間の流れや、今現在流れている時間そのものが、三渓園の内外でやや異なっている感じですね。

そんな”時空のゆがみ”的な何かが自分の中に生じ始め、横浜の都心部にほど近いところにいながらにして”小さな旅”気分を喚起されはじめるのが、三渓園入園後、およそ鶴翔閣付近の一帯からです。

かつての鶴翔閣の姿は園内の案内書きに残されていますが、他の史料とも合わせて判断する分には、恐らくはこの風景が”その昔の本牧”とひとつながりになっていたのでしょう。

ぱっと見で判断する分には”今は昔”を思わせるに足る一枚ですが、三渓園内にいるとそこまで遠い昔の風景のように思えなくなって来る部分も、あるにはあります。

一つには、そのあたりも三渓園の良さなんですよね。

現在、鶴翔閣付近から望む大池の向こうには、橋(観心橋)が休憩所(涵花亭かんかてい)へとかかっている様子を確認することも出来ます。⠀

この日本庭園的な空間は、昔から一貫している”三渓園内の風景”ですね。

参考

内苑地区

園内でも特に重要文化財の密集地帯である内苑地区は、かつての三渓園では原家の私庭だったエリアで、三渓園内では北西部(鶴翔閣・大池の西側)に位置しています。

国内外から財界人・文化人としての”三渓”原富太郎さんの下を訪れる来客も多かったため、三渓園内でも特に鶴翔閣を中心とした内苑エリアは、近代日本文化・芸術にとっての広い交流の舞台ともなっていたようです。

ところで、三渓園に移築された国・横浜市認定の文化財の多くは、およそ室町~江戸期に建造されている(中でも、徳川将軍家や”太閤”秀吉にまつわる施設・文化財が目立ちます)ため、”明治期に造園された三渓園”だったとしても、”明治・大正期のヨコハマ文化”がそのまま残された施設だ、という体にはなっていません。

恐らくは開園当初にあっても”古き良き”を感じさせる空気に満ちていたのではないかと思いますが、以下、内苑地区の主な見どころを別記事にまとめました。

三渓記念館周辺

【三渓園/内苑地区】三渓記念館と御門

三渓記念館は、三渓園内中央部、大池のほとりかつ内苑地区入り口付近に設けられた施設です。

原三渓(富太郎)関連資料や美術品が常設展示されているほか、お土産品の購入や、抹茶を楽しむことも出来ます。

臨春閣/身代わり灯篭

【三渓園/内苑地区】臨春閣と身代わり灯篭

三渓園の内苑地区で最初に目に入る大きな建物は、国指定重要文化財・臨春閣です。

大正6(1917)年、三渓園に移築されました。

亭榭(ていしゃ)

【三渓園/内苑地区】亭榭

三渓園・内苑地区に位置する小さい池の向こう、臨春閣りんしゅんかくを望める位置にかけられた橋は亭榭ていしゃと名付けられています。

月華殿/天授院/金毛窟/春草廬

【三渓園/内苑地区】月華殿、天授院、金毛窟、春草廬

月華殿は17世紀初頭の京都・伏見城にあった大名来城の際の控え所(1603年築)、天授院は鎌倉五山・建長寺近くに置かれていた地蔵堂の建物(1651年築)です。

共に、国指定重要文化財となっています。

聴秋閣

【三渓園/内苑地区】聴秋閣

三渓園の内苑地区に移築された重要文化財・月華殿からの下り坂道に並行して流れる小川の先に位置しているのが、国指定重要文化財となっている聴秋閣ちょうしゅうかくです。

三渓園に正門から入った場合、月華殿や天授院等と並んで内苑地区でも一番奥に位置しています。

外苑地区・三重塔エリア

外苑地区は、三渓園開園当時から公開されていたエリアで、元々は24時間開放されていました(現在は他エリア同様、原則として日中のみ公開されています)。

三渓園内で、大池の南部/東部に位置しています。

見どころとなる三重塔へは、三渓記念館前付近から進むというルートを取るのが、恐らく順路に沿った進み方です。

外苑地区→内苑側へと”順路”の逆を進む場合は、出口と入口が逆転する形、旧東慶寺仏殿や初音茶屋付近から上り階段を進んでいきます。

以下では、順路に沿って三重塔を目指しました。

三重塔エリアへ

三渓記念館前、原三渓さんの碑のすぐ後ろ当たりから、三重塔への坂道が伸びていますが、

階段を上りきった先で二手に分かれた道の左側へ進むと、三重塔方面です。

参考

松風閣(展望台)/出世観音

【三渓園/外苑地区】松風閣(展望台)と出世観音

三渓園内、内苑地区と外苑地区の境目に位置する三渓記念館前付近から始まる上り坂を登り、最初の分岐を右側に進むと、展望台である松風閣へつながります。

旧燈明寺三重塔

【三渓園/外苑地区】旧燈明寺三重塔

現在は三渓園のシンボルともいえる三重塔は、大正3(1914)年、京都の燈明寺とうみょうじ(奈良時代に行基が開基したと伝えられる、由緒あるお寺です)から移築されました。

築年は1457年(康正こうしょう3年、室町時代)で、園内の建造物中最も古い建物です。

外苑地区・その他

初音茶屋/旧東慶寺仏殿

【三渓園/外苑地区】初音茶屋、旧東慶寺仏殿

三渓園内で内苑地区から外苑地区へと順路を回って丘を上り、三重塔付近を通過して丘を下ると、次に出てくるのは、かつてはここで麦湯や香煎入りの白湯などが無料でふるまわれたという”初音茶屋”跡です。

丘を上り下りする”三重塔”コースを進まず、大池に沿って順路を進む場合、三渓記念館の先で”お茶屋さん”エリアを通過しますが、その際、現在も営業中であるお茶屋さんの横を通過した後で、一番奥に位置しています。

“初音茶屋”跡のさらに先に位置しているのが、旧東慶寺の仏殿です。

旧矢箆原(やのはら)家住宅

【三渓園/外苑地区】旧矢箆原(やのはら)家住宅

三渓園内、外苑地で旧東慶寺仏殿のほぼ隣に位置する旧矢箆原やのはら家住宅は、合掌造りの住宅です。

ダム建設によって一帯の水没が決まった昭和の半ば、三渓園へ移築される運びとなりました。

丘の上の三渓園名物・旧燈明寺とうみょうじ三重塔同様、貴重な文化財の延命措置にあたる移築ですね。

待春軒/燈明寺本堂/観心橋

【三渓園/外苑地区】待春軒/燈明寺本堂/観心橋

外苑地区の順路に沿って三重塔付近から下り坂を降り、旧矢箆原やのはら家住宅付近を過ぎると、あとは出口である正門への一本道が始まりますが、いわば”最終盤”にあたる一帯にも、三渓園の見せ場は残されています。

開園情報/アクセス

開園情報他

開園期間 ライトアップ等のイベント時以外、9時~17時(最終入園16:30)
休園日 12月26日~31日
入園料 高校生以上900円、小中学生200円、市内在住65歳以上700円
ほか、団体割引等あり(公式サイト “入園料“へ)
園内ガイド フリーガイド:10~12時、13時~15時30分の間、随時受け付け
定時ガイド(60分、内苑地区、30名まで):11時スタート/13時30分スタート
ほか、団体ガイドあり(公式サイト “ガイドボランティア“へ)
年間パスポート 高校生以上2500円、小中学生700円、市内在住65歳以上2000円
駐車場 最初の2時間1000円、以降30分毎200円、上限無し

アクセス

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