文明開化の街、馬車道歩き -西洋建築と”日本初”-

駅別スポット紹介
この記事は約12分で読めます。

馬車道商店街と周辺エリア

馬車道商店街エリアと”横浜開港”

現在の馬車道商店街一帯は、日本大通り地区や山手/山下地区、元町地区と並び、開港後の横浜でほぼ最初期以来栄えてきたという、”文明開化はじまりの地”の一つに該当します。

開港場傍の”馬車の発着場”としてその歴史が始まった馬車道エリアの発展は、やがて次のステップへ。

“生糸”や”金融”で繁栄の端緒が開かれた後、商店街としての”馬車道”がブレイクすることとなるのですが、いずれも貿易港・横浜が開かれたことの恩恵を被る形の発展ですね。

馬車道の進化とは別に、交通網はやがて初代横浜駅(現・桜木町駅)を起点とした鉄道へと変化し、最終的には”港と東海道をつなぐ”という初代横浜駅・現桜木町駅の役割自体も終焉の時を迎えることになるのですが(廃線となった横浜臨港線が、汽車道へ)、それは”開港当初”にあってはまだまだ先のこととなる話しです。

今も残る建築物は残念ながら関東大震災(1923年=大正12年9月1日)後に竣工されたものがほとんどなのですが、金融や生糸事業そのものについては然に非ずということで、歴史的建造物のほぼ全てが旧・銀行だったことに、かつて活況を呈していた生糸貿易の名残が宿っています。

参考

はじまり

“開港場・横浜”と”東海道の神奈川宿(神奈川湊)”を結ぶ交通を整備することが急務とされた幕末期、二点間をつなぐ渡し舟に次いで整備されたのが、横浜道よこはまみち“を利用した馬車交通でした。

時あたかも、鉄道開通前夜の話し(幕末最後の慶応年間~明治一桁年代前半期)ですね。

横浜道は”江戸と京を結ぶ大動脈である東海道“と”新規に開かれた開港地・横浜“の間を一本につなぐ役割を果たした(=”横浜港”を東海道に乗せるための)連絡路に該当しますが、その横浜道において”横浜側の起点”(馬車の停車場)となったのが現在の馬車道エリアでした。

ここが、横浜開港に伴う”馬車道エリア”のはじまりです。

現在の”馬車道”商店街の命名も近代(最初期の同地の在り方)に由緒を持つもので、一帯がかつて(商店街としての繁栄を謳歌する以前に)馬車の発着場だったことに由来しています。

参考

“馬車の発着場”から馬車道商店街へ

氷水や清涼飲料水、さらには洋書の販売といった”開港地傍ならでは”の商売や、西洋料理の外食店開業などが現在の馬車道商店街エリアやその周辺で始まったのは、年号が明治に代わって間もない頃、鉄道開通前夜の話しで、概ね”国内日刊新聞の発祥”(現在、市役所傍に記念碑が設置されています)と時を同じくします。

アイスクリームやガス灯など、“馬車道エリア経由の日本初”として著名な名物はおよそこの時期に入ってきたものですが、このあたりは、一重に”開港地に近かった””馬車の拠点となっていた”という好立地故の出来事ですね。

馬車はやがて東京湾上に整備された定期航路を上回る足へと成長するのですが、時あたかも幕末から明治にかけての社会の激変期にあたりましたということで、折角開通した馬車交通ではあったのですが、明治に入るとほどなく開通した鉄道に、”交通インフラの主役”の座を取って代わられます。

とはいえ、新たに敷設されることになった鉄道は旧東海道をおよその基準として路線が計画されたものであったため、港と東海道をつなぐ連絡路(港から馬車道へ伸びた道、および馬車道の先に伸びた横浜道)についても、東海道同様にそのまま活かされる形となりました。

仮に鉄道開通と共に東海道そのものが廃れていれば、東海道への連絡路として作られた”横浜道”も同じ(東海道に連動する形で廃れていたという)運命をたどることになっただろうと考えられるところではありますが、幸運にもそうはならずに済んだ、その結果明治の後半期に訪れることになったのが、”商店街としての馬車道”の盛期です。

もちろん、”東海道”共々、時の横浜港の繁栄と歩みを共にすることとなりました。

参考

生糸貿易と旧銀行群 -その昔の馬車道、本町通り-

現在の馬車道商店街界隈には、”馬車の駅”あるいは”開港場傍の商店街”としての歴史の他、”生糸の街”および”金融街”としての歴史があります。

富岡製糸場がリードした生糸産業が近代日本の主力輸出産品を担ったことによるもので、輸出用の生糸が集まる港となった横浜には国肝煎りの生糸検査所が作られたほか、貿易(輸出入)のための金融機関も林立しました。

その現場となったのが現在の馬車道商店街エリア、および馬車道商店街に直交する本町通りエリアです。

生糸検査所とは、明治29(1896)年に当時の農商務省の管轄下、旧”生糸改会社”(1873年=明治6年に設立された、生糸商人の同業者組合)が母体となった官立(=国立)の組織で、生糸の完成品の品質チェックを役割としていました。

同様の機能を持つ部署は、関西の貿易港である神戸や生糸の原産地である富岡(製糸場)にも置かれています。

生糸は、貿易港・横浜においても地場産業としての横浜スカーフが名産品となるなど、戦後まもなく自動車・電化製品等が輸出品目のトップになるまでの日本にとって基幹産業であり、ダントツの主力輸出品でした。

参考

旧生糸検査所

馬車道商店街の入り口付近、交差点の向こう側には、旧・生糸検査所が復元された赤レンガの建物があります。

“旧・生糸検査所”は、現在は横浜第二地方合同庁舎として機能し、財務省、国交省、防衛省等々、中央官庁の出先機関が入居するビルとなっていますが、

万国橋通り沿いから見た正面玄関の車寄せの上には、今も”ふ化した蚕=カイコガ”がデザインされたエンブレムが置かれています。

参考

旧第一銀行横浜支店

古代ギリシャの建築方式を模倣した作りが目を引く、かつて”第一銀行横浜支店”だった建物は、1929(昭和4)年に竣工しました。関東大震災(1923年発生)の被災後、旧生糸検査所が現在の位置に作られた(1926年=大正15年)直後にあたります。⠀

馬車道商店街やみなとみらい線・馬車道駅すぐ傍、新市役所の並びに位置していますが、

外から見たイメージと建物内部の雰囲気は、

概ね一致しています。

参考

旧富士銀行横浜支店(現・東京藝大大学院映像研究科・馬車道校舎)

馬車道商店街の入り口付近にあるのが旧・富士銀行横浜支店の建物です。

前記した旧第一銀行横浜支店と同じく、昭和4(1929)年に建てられました。

共に関東大震災の被災から、6年後のことです。

2001(平成13)年まで旧富士銀行として機能した後、2002年に横浜市が取得し、翌2003年には市認定の重要文化財に指定されました。⠀

2005(平成17)年以降は、東京藝大大学院・映像研究科の馬車道校舎として使われています。

参考

  • 東京藝大大学院・映像研究科公式サイト “アクセス

馬車道大津ビル

旧富士銀行横浜支店の右隣にある建物(馬車道大津ビル)は、1936(昭和11)年竣工の旧東京海上火災保険ビルです。

2000(平成12)年に、横浜市認定歴史的建造物に指定されました。

旧横浜正金銀行本店ビル(現神奈川県立歴史博物館)

神奈川県立歴史博物館の建物は、かつて横浜正金銀行の本店ビルとして使われた建物です。

1899(明治32)年に着工し、1904(明治37)年に竣工しました。

時あたかも、商店街としての馬車道が繁栄の時を迎えようとしていた時代ですね。⠀

現在の馬車道商店街でも”顔”となっている建築物ですが、輸出品としての生糸の質を保つために国の肝入りで作られた生糸検査所に対し、横浜正金銀行は貿易の決済業務(国際金融取引)を扱う特殊銀行として設立され、公正な外国為替での決済(外貨決済)がその目的とされました。

設立年は1880(明治13)年で、銀行名に付された”正金”は現金を意味します。

横浜正金銀行の主な歴代頭取には、日銀総裁・横浜正金銀行頭取を兼務後に蔵相から首相となった高橋是清、後に日銀総裁・蔵相となった井上準之助、副頭取には慶応義塾塾長を務め、上皇陛下の皇太子時代に教育係(=東宮御教育常時参与)を務めた小泉信三など、その時代の要人を多く含みます。

1919(大正8)年には世界三大為替銀行に数えられるまでに成長したこととも併せ、当時の日本経済が横浜正金銀行に寄せた期待のほどをうかがわせるものがありますが、全盛期にはアメリカ、欧州、東南アジア、中国大陸など世界の各地に多数の支店を持っていました。

残念ながら1946(昭和21)年12月に営業停止となって普通銀行に改組され、旧東京銀行(現・三菱UFJ銀行)の母体となります。⠀

“三大為替銀行”、残り二行は英植民地時代の香港に設立された香港上海銀行、イギリスのチャータード銀行(現在のスタンダードチャータード銀行)で、ともにイギリスにルーツのある、現存する銀行です。

1969(昭和44)年、旧横浜正金銀行本店本館の建物は、国指定の重要文化財となりました。

馬車道商店街沿いには、案内書きも用意されています。

参考

旧横浜正金銀行本店ビル周辺

旧横浜正金銀行本店ビルの周辺にも、いくつか”かつて”を思わせる見どころがあります。

馬車道側入り口付近には、馬車道に日本初のガス灯がともされたことを記念して作られた、イギリス・シェフィールドパークに置かれているものと同型のガス灯が設置されているほか、

通りを挟んだ向かい側の歩道沿いには、”牛馬飲水”と書かれた馬の水飲み場(遺構)が置かれています。

“牛馬飲水”は、鉄道開通前の馬車道が乗合馬車の発着場だった頃の名残りですが、レストラン兼バー兼喫茶店”馬車道十番館”前にも、同タイプのものが置かれています。

馬車道側からだと裏手にあたる県立歴史博物館入り口付近には、山下町の旧居留地跡から出土した「オランダ製の大砲型・錨」という中々マニアックな一品も置かれています。

参考

旧川崎銀行横浜支店

馬車道沿い、旧横浜正金銀行本店の隣には、旧川崎銀行横浜支店ビル(現・損保ジャパン横浜馬車道ビル)があります。かつての銀行の建物は1922(大正11)年に建てられましたが、現在は、”正面の二面”のみが残されています。

“日本初”と老舗店

日本写真の開祖

旧横浜正金銀行傍の馬車道沿いには、「日本写真の開祖」下岡蓮杖さんの碑があります。

“写真の開祖”とは日本最初期のカメラマンだということを意味しています。

ほぼ同時期に活動した写真家には、江戸の鵜飼玉川さん(日本初の写真家)、長崎の上野彦馬さんなどがいたとされますが、三人とも1860年代の活動が確認されています。

下岡蓮杖さんは長崎の上野彦馬さん共々多くの弟子を輩出し、黎明期の写真界に多大な功績を残されたようです。

日本初のガス灯

馬車道沿いにある関内ホール前には、明治5(1872)年の馬車道に日本で初めてガス灯が灯されたことを記念し、当時のものと同型のガス灯のレプリカが置かれています。

二基のガス灯の後ろには、当時の馬車道の様子が撮られた写真が埋め込まれています。

日本初のガス灯や電気の街灯が馬車道に灯ったことによって、馬車道では夜店が活況を呈するようになるのですが、”横浜・中区史”によるとそのピークは明治40年代だったようです。

参考

日本初の電気の街灯

馬車道の老舗の有名店としては、昭和2(1927)年創業、カツレツの勝烈庵が挙げられます。

お店の前には”ハマの街灯点火の地”記念碑が置かれていますが、これはガス灯ではなく電気による街灯点火(明治23年=1890年)を記念してのものです。東京では既にこの8年前、明治15(1882)年に銀座に電気によるガス灯が設置されていることから、”ハマの”街灯点火とされています。

参考

六道の辻通り、馬車道十番館、”牛馬飲水”

勝烈庵のすぐ隣には”六道の辻通り”の碑が置かれています。

六道とは、仏教でいうところの輪廻転生する6つの世界(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)のことで、そのまま解せば死後の世界への入り口を意味します。中々物々しい命名ですが、由来としては、単純に「昔ここに六差路があった」ということからのようです。

“六道の辻通り”碑石の向こうに見えているのは、1967(昭和42)年に”勝烈庵の十番目の店”として造られた、馬車道十番館です。馬車道十番館前には、かつての馬車道が馬車の発着場だったことの名残りである”牛馬飲水”が残されています。

参考

鉄(かね)の橋と吉田橋関門跡 -馬車道商店街傍の史跡-

馬車道商店街傍にも”幕末から明治への過渡期ならでは”を思わせる史跡が幾つか残されていますが(他、例えば本町通り沿いにてしばしば見かける旧銀行跡、商店跡なども然り、開港当初の横浜港の成長を思わせるものですね)、うち”吉田橋関門跡”と”かねの橋”について、別記事にまとめました。

前者は幕末期、開港直後の不安定な政情を原因として作られた幕府の関門であり、後者は文明開化の恩恵を被ったという、日本初のトラス構造の鉄橋が作られたことを記念した碑です。

アクセス

タイトルとURLをコピーしました