【東京街歩き/墨田区下町歩き】本所松坂町公園 -吉良邸跡-

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【東京街歩き/墨田区下町散歩】本所松坂町公園 -吉良邸跡-

以前江戸東京博物館を訪問した帰り道のことですが、そもそも江戸東京博物館自体が東京・下町のど真ん中(墨田区)にあるということで、何か所か周辺を周ってみることにしました。

一帯は、特に江戸時代から明治・大正・戦前昭和関連の史跡だらけというくらい、歴史の跡が豊富なエリアなので、2~3か所じゃ周ったうちに入らないくらいなのですが、それでも夕方の小一時間程度で回れる範囲でということで周ってみました。

そのうちの一か所が、今回紹介する吉良邸跡です。

ちなみに、本当は江戸東京博物館の記事を書こうと思っていたのですが、残念ながらなぜか写真のデータが丸ごと消えてしまったため、そこは次回訪問時に持ち越したいと思います。

 

本所松坂町公園 -吉良邸跡-

吉良邸跡へ

本所松坂町公園と書くより吉良邸跡と書いた方が公園の雰囲気が伝わるんじゃないかと思いますが、赤穂の四十七士によって主君の仇として討たれた、吉良上野介公の旧邸宅跡です。

旧吉良邸は本来ものすごく大きかったらしいのですが(本所松坂町公園の両側には、現在もそれぞれ吉良邸正門跡吉良邸裏門跡の碑が遺されてます)、現在は本所松坂町公園のみ、東京の墨田区(かつての本所松坂町、現在の墨田区両国3丁目)にそれっぽく残されています。

当人からすれば、思わぬところで生涯を閉じることとなり、かつ不本意なところで歴史に名を残すこととなってしまった、吉良邸主の吉良上野介義央(よしひさ)公ですが、

現在も、旧邸宅在りし日の当主として、公園内で鎮座していらっしゃいます。

 

四十七士の物語と、本当のところ

ちなみに、赤穂四十七士の討ち入りに関しては、討ち入りにどの程度の必然性があったのか、言葉を変えると吉良上野介サイドの悪態が本当に世に伝わるほど辛辣なものであったのか(結局のところ起こるべくして起こった事件だったと断言できるのか)という疑問点が、今なお残されています。

いわゆる赤穂浪士が取りざたされる度地味に持ちあがるこの点ですが、そもそも討ち入りの直接の原因となってしまった江戸城内での刃傷事件発生の背景に不明な点が残る以上、全体像に疑問が生じる余地があるのは致し方ないところだともいえます。

本当のところの解釈に諸説出てくること自体が、歴史あるある話でもありますからね。

そんな中で後世に伝わった「主君の仇打ち」イメージについては、四十七士の討ち入りを題材として作られた人形浄瑠璃、および歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」が作り上げたものだと言われます。

このほか、横浜出身である大衆小説の大家・大佛次郎さんの名作『赤穂浪士』による影響も多々ありますね。原作小説も映画版も見ましたが、何度見ても心揺さぶられました。

まさに討ち入りのその時まで世を欺き続けた策士・大石内蔵助の器と振る舞い、浪人生活を経て赤穂藩士となった、四十七士随一の剣客である「討ち入り」急進派・堀部安兵衛が見せた主君への忠義等々、全てを虚構だと言い切るのはさすがに野暮だし無理があるだろうと思うのですが、結果として若干でも盛られた部分がもしあるのであれば、そこは一応理解しておきたいところですよね。

古典・名作が悉く忠臣・四十七士を描き続けた、結果今の四十七士像があるわけですが、創作イメージを切り離した実際のところとしては、吉良上野介は本当に不倶戴天の仇敵と言うに値する人物だったのか、赤穂にとっての敵討ちの対象となってしまうほど一方的かつ圧倒的な悪党だったのかという論点に対し、それはどうだろうかとみられている節もあります。

概して浅野家側にも誤解を生じかねない対応があった、時に神格化されて描かれる嫌いのある浅野内匠頭の人物像にそもそもの齟齬があるのだ等々と、「討ち入り」を正当化する世界の根本にヒビが入りかねない疑義が呈される場合もあるわけです。

 

忠義の物語と元禄期の世相

あくまで私見ですが、それでも赤穂浪士の行動は、およそ武士としての道義を前提とするなら立場相応には正しかった、しかし吉良上野介も世間一般イメージで語られるほどの悪党ではなかった、この辺りが本当のところなんじゃないかなーなんて、思ったりします。

あれも正しいがこれも正しい、討った側には相応の大義があったが、では討たれた側が仇として十分だったのかといえばどうやらそうだとは言い難い面にしても無くはなさそうだという、中々複雑だといえば複雑な事情を持った事件が、「四十七士の討ち入り」だったりするわけです。

複雑さの故は、一つには双方の身分関係にあり、もう一点としては当時の時代背景にあります。

そもそも吉良家は足利将軍家の支流でもあるという名門家系で、太閤秀吉在りし日の五大老の一人・上杉景勝を輩出した山内上杉家との間にも縁戚関係があります(徳川将軍家ともつながりが強い、上杉綱勝の妹を娶ったのが吉良上野介です)。

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今風にいうのであれば、吉良家は”上級国民”の中でも上の部類、上の上にあたる家系です。石高=財産規模こそ小さいものの、吉良家にはこの家格があったために、最上層の地位を得られていたわけです。

対して赤穂の浅野家はといえば、城を持てる大名としてはどちらかというとギリギリと言えなくもない、5万石の大名です。1万石以上の石高=財産を持つ武士が大名と呼ばれ、さらに3万石以上の大名には城を持つことが許されたわけですが、数十万石以上の規模の大名にしても少なくない中、浅野家の財産規模は大名全体では小さい部類に該当し、かつ江戸からは遠く離れたところに領があります。

石高比較でこそ吉良家とは桁が一つ違うのですが(浅野家の方が上です)、人臣の比較では、吉良家との間にはそれなりにわかりやすい違いが出来ていました。

圧倒的上級の吉良家、ギリギリ大名の浅野家、みたいな感じです。

そもそも「同じレベルのもの同士」の争いであればただの喧嘩となってしまうところ、「四十七士」の物語はこの対比を前提とすることで、日本民族特有の(?)判官びいき(悲運のものや弱者の味方をしたがる気質)を生じさせる潜在性を持っていました。

忠義を貫いた結果の下から上への反発であれば、それだけでも物語は光ることになりますが、ここに合わせてダメ押し的な要素となったのが、当時=元禄期の世相です。

17世紀前半、武士や諸藩に荒々しさや臨戦態勢を残したままでは治安の維持が図れないということで、特に江戸幕府最初の三代で、武士全般の統制に力が入れられます。一連の規制は武家諸法度とその改正版という形で発布されますが、三度目の武家諸法度である天和令が出されたのが1683年(天和3年)、発布したのは五代将軍・徳川綱吉でした。

敵討ちや新規の築城、争いごとが禁じられ、城の修繕も大名の結婚も許可制、違反者は厳罰に処すといった具合に、「戦う武士」を完全に過去のものとする政策がゴリ押しされることによって花開いた文化こそ、元禄文化でもあったわけです。

17世紀の終わりから18世紀にかけての時代=元禄時代の文化は、やがて栄えることになる江戸を中心とした文化(文化・文政期の文化)に先行して栄えた、上方(京都・大坂)中心であるところに特徴を持つ文化です。よく言えば一般町民にとって自由闊達な空気を謳歌できた時代、冷めた見方をするのであれば、武士階級から完全にかつての気風=勇ましい戦国風の武士のあり方が抜け切ってしまったといわれた時代でもありました。

もちろん、平和は平和でありがたいものですが、平和な時代には平和な時代一流の悩みや問題点が存在するのも世の常です。光輝く過去、規範とすべき過去があるのであれば、過ぎ去りし日々、古き良き時代への郷愁にしても、その一つに数えることが出来るかもしれません。

時代の停滞期に復古主義が台頭するのは、世界史の常でもありますからね。

ここで、将軍綱吉といえば、武家諸法度の天和令以上に生類憐れみの令で有名な将軍ですが、他ならぬ、吉良上野介を事実上不問に付した一方で、浅野内匠頭に即日切腹を命じ、浅野家には改易(赤穂藩領の没収)という厳罰を下した人物でもあったんですね。

そこにきちんとした事実関係の調査等があった上での結論であればまだしも、ほぼ即断即決、どうやらそうではなかったようだということで、一連の事件の責任の所在が割とはっきりしているようにも見えてきます。

荒々しさを求めず、殺生も求めず、武士の「らしさ」もてこ入れされ、身分相応に質素にふるまうことのみが美徳とされたという、一連の規制と価値観を江戸幕府の一存でゴリ押しできた時代。江戸城松の廊下での刃傷事件が時の将軍・徳川綱吉の逆鱗に触れた事件だったのだろうというところは、想像に難くないところです。

その結果出てきた、浅野家側に厳しすぎた綱吉の処断(特に浅野家を改易に処した部分)にこそ、過ちの元があったのだとも判断できるわけです。

だからといって、一方当事者の浅野家サイドとしてはそのままそこを仇とするにはあまりにも相手が大きすぎたということで、「義」の矛先が現実的なところへと引き下げられた、その結果が「討ち入り」となったと考えても、十分筋は通ります。

果して四十七士は義を貫き、亡君の仇を討つわけですが、およそ武士として命を懸けて亡君への忠義を貫いたこの姿勢は、残念ながら元禄期の武士のものとしては、二重三重にあるまじき姿勢でもありました。

結果四十七士ほぼ全員に亡君と同じ切腹という厳罰が下されるわけですが、しかし、なんですよね。

この件に対して庶民一般の思うところは一体どうだったのかといえば、その隠された本音が仮名手本忠臣蔵の大ヒットに現れていたのではないかという、そんな解釈が導けるような気もします。

幕府批判が出来ないために舞台を室町期に設定した創作「忠臣蔵」が大ヒットした、将軍綱吉の一方的断罪も含めて「吉良」が仇となったという話であれば、世が世ならこの事件が討幕への流れを加速し、かつ赤穂藩の面々が維新政府の一角を占めたなんてことになったのかもしれませんからね。

時の将軍のお目こぼし(というよりは一方的な処断)によって、結果的に赤穂四十七士に討たれることとなった、なおかつ義士の仇敵として歴史に名を残してしまったという、それでも真相が闇の中にあるという部分はあるわけですが、吉良上野介公にしてもまた、中々に悲運の人なのかもしれません。

 

アクセス/公式サイト

墨田区公式(吉良邸跡)

 

アクセス

JR総武線・両国駅から徒歩圏内で、近くには国技館もあります。

 

 

横浜出身・在住。現在、主に横浜(みなとみらい線沿線中心)の街歩きガイド記事を書いています。鎌倉・江ノ電沿線街歩きや箱根エリアの他国内小旅行記事をはじめ、その他の話題もボチボチ。サイトへのご意見・ご感想等々は、お手数ですがPCからお願いします。

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