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【街歩きと横浜史】港の見える丘公園の近代史(幕末から明治へ)

港の見える丘公園

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【街歩きと横浜史】港の見える丘公園の近代史(幕末から明治へ)

横浜山手の近代と”港の見える丘”

開港期の横浜山手

開港以前の横浜山手は所々に畑が点在する、原野とも山林ともつかない丘陵地だったようですが、開港の翌年(1860年=万延元年)、開港場付近の居留地(山下町居留地)に居留する外国人によって新しい居留地として着目されたことから、現在の港の見える丘公園横浜市公式サイト)付近の今につながる歴史が始まります。

始めは申し出に対する返答を渋っていた幕府が結局その要望を受け入れる形で、居留民側からの要望があった翌年(1861年=万延二年)には、領事館・公使館の移転用地として横浜山手が外国人居留民に開放されました。

この年、イギリスは早速海軍用地として横浜山手の地を借り受けていますが、幕府が”受け入れ”を容認した背景には「そうすることによって神奈川(旧東海道の宿場町である、神奈川宿界隈)を立ち退いてくれるのであれば好都合ではないか」という、どちらかというとネガティブな本音があったようです。

「出来れば開国も開港もしたくないが、それが不可避であるならばせめて江戸から距離のあるところに港を作りたい」という、交通の便が良くなかった(江戸から距離があった)ことによって横浜を開港場に指定した、横浜開港時の事情と軌を一にする本音ですね。

元々諸外国の公使や総領事は山手移転には積極的ではなかったようですが、各国商人の横浜居住が進み、さらに旧来(鎖国時代)より幕府と付き合いのあったオランダが率先して動く形で”領事館の山手移転”を提唱すると(もっとも、オランダは公使館も領事館も山手には移転させなかったようです)、他国も「もはや横浜開港を認めざるを得ない」として、これに追随する形で山手への領事館・公使館移転を希望します。

その結果、1866年=慶応二年、まず最初に横浜山手にイギリスの公使館が作られました(同地には、後にイギリス総領事の公邸が置かれます)。

 

英仏軍の山手駐屯

とはいえ、時あたかも尊王攘夷派の志士による外国人殺傷事件が相次いで起こっていた幕末の世の中でしたということで、幕府側・居留民側双方の消極的な理由に基づいた、穏やかに始まったはずの”山手移転”を促進させる出来事も相次ぎます。

山手への外国人居留民の受け入れが決まった翌年(1862年=文久二年)には、薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件である生麦事件が発生しますが、このことを契機として、自国の居留民保護の名目の下横浜に英仏軍が上陸し、以降常駐することとなります。

仏軍は現・谷戸橋元町中華街駅元町口傍)付近に駐屯した上で、現在のフランス山地区一帯を占拠、英軍は現在の港の見える丘公園の”丘”部分(現在、横浜市イギリス館イングリッシュ・ローズの庭香りの庭展望台等々があるエリアです)に兵舎を作って駐屯しました。

英軍と仏軍は、身に付けている軍服の色から、それぞれ赤隊(英軍)、青隊(仏軍)と呼ばれたようですが、現在ビヤザケ通りから外国人墓地前にかけて通されている陣屋坂に英軍が陣取っていたのはこの時期の出来事です。

 

公武合体派と尊王攘夷派の対立

居留地に駐屯する英軍・仏軍が日本の政情に神経をとがらせていた頃、当時の内政の中枢(幕府・朝廷)では、”公武合体派”と”尊王攘夷派”(以下、”尊攘派”として進めます)の対立が先鋭化します。

前者の中心は幕府の他、薩摩藩の島津久光や土佐藩の山内容堂、さらにはいわゆる”一会桑”(一橋徳川家、会津藩、桑名藩)など雄藩中心、後者の中心は長州藩です。

こと開国や外国人居留を軸として見た場合、体制に属する前者(公武合体派)が最終的に開国和親を是とした時、後者(尊攘派)は前者とは真逆の主張となる、条約破棄・鎖国継続・外国人排斥を是とします。

双方は”開国を是とするか否とするか”という核心部分で正反対の結論を持っていたことから、当時の時勢とも相まって、やがてその対立自体が武力衝突を伴うものへと変貌しました。

 

不穏な世相と、山手居留地への移転促進

いわゆる”攘夷”によるものであるというよりは、単純に文化の違いがもたらした悲劇であるともいえる”生麦事件”発生の翌年(1863年=文久三年)には、イギリス側の報復である薩英戦争が勃発した他、後に巡り巡って薩摩藩の盟友となる、長州藩の尊攘派による”攘夷”(関門海峡を通過する外国船への砲撃)も決行されます(この時期の長州藩の立場について、後述)。

さらにその翌年(1864年=文久四年・元治元年)には、長州藩の”攘夷”への報復として四国(英仏米蘭)艦隊による下関砲撃事件(下関戦争)が発生し、長州藩の全砲台が四国の連合軍によって占拠されました。

このような不穏な世相の中で、同年、山手居留地にとっての大きな節目を作った約定である”横浜居留地覚書(第二回地所規則)”が、幕府と四国(英仏米蘭)代表の間で交わされます。

“覚書”は四国による一方的な提唱が形になったものだったという色が濃かったようですが、状況が状況なだけに幕府としても受け入れざるを得ず、山手の地は外国人居留民に対して正式に開放される運びとなりました。

以降、”覚書”に基づいた居留地の整備・拡張の進展に伴って、横浜山手は華やかな外国人居留地への道を歩み始めるのですが、対照的に国内情勢はいよいよ風雲急を告げる状態となって、”幕府の終わり”へのカウントダウンがはじまります。

 

討幕・新政府成立への流れ

以下は、横浜史というよりは日本史の話題です。

薩摩藩政をリードする薩摩の国父・島津久光が”公武合体”(討幕による新政府樹立ではなく、幕府・雄藩と朝廷の連立体制)を主張していた薩摩藩では、藩論を統一するため、生麦事件発生と同年(1862年=文久二年)に寺田屋事件によって尊攘派を粛正し、翌年(1863年=文久三年。薩英戦争発生と同年です)には会津藩と協同して”八月十八日の政変”を起こすことによって、京から尊攘過激派・長州藩とその一派を追放します。

この政変は、尊攘派の公家を抱き込んで”朝廷の乗っ取り”を図った長州過激派の影響力を京から一掃するために実行されますが、翌1864年(元治元年)には、幕府の京都守護職(松平容保・会津藩)指揮下にある新選組が池田屋事件によって長州藩・土佐藩等の尊攘派活動家を襲撃・粛清すると、”八月十八日の政変”で京を追われた長州藩の過激派が、”失地回復”を狙って再び上京します。

しかし京において会津藩、桑名藩、薩摩藩の兵と激戦を繰り広げた長州過激派は再び敗北、またしても京を追われる身となりました(禁門の変=蛤御門の変)。

同年(1864年=元治元年)、尊攘過激派せん滅を狙う幕府は長州征伐を実施し、長州藩を恭順させることに成功するのですが、マクロな視点から事態の表層を追うのであれば摩訶不思議なことに、この長州征伐を境として幕末の動乱の潮目が逆転します。

とどめを刺されたはずの長州藩が息を吹き返し、公武合体を推進していたはずの薩摩藩が幕府に反旗を翻すことによって、公武合体から武力討幕へと形勢が一気に変わってしまうんですね。

良く知られているように、ポイントは両藩の下級武士の動向にありました。

一度は幕府に対して恭順の姿勢を見せた長州藩の藩論は、開国・討幕を主張する勢力となった”かつての尊攘派”によってリードされ転回すると、再び幕府に対峙する姿勢を鮮明にします。これを受けた幕府は二度目の長州征伐(1865年=元治二年、慶応元年)を計画しますが、”英国のバックアップを受けた薩摩藩”と繋がる長州藩を前にして、あえなく計画倒れに終わります。

“国父”の島津久光が主張する藩論である公議政体論(雄藩による連合政権樹立)を向こうに回した西郷隆盛が討幕計画を進め、イギリス経由の武器密輸を通じて長州藩の味方に回ったためですが、1866年=慶応二年、薩長両藩の間に同盟関係が成立すると”武力討幕”は現実のものとなり、公議政体論を背景とした公武合体は力づくで退けられることとなりました。

その結果、1867年=慶応三年には王政復古の大号令によって幕府の廃止等が、小御所会議によって新政権での徳川慶喜排除がそれぞれ決められると、翌1868年=明治元年には江戸城が無血開城されるなど、藩閥政府主導のいわゆる”明治維新”が進んでいきます。

当時の日本にとって果して武力討幕が正解だったのか、それとも公議政体による公武合体政治が正解だったのか。かれこれ150年が経過した現在でも熾烈な意見対立が存在するところではありますが、とにもかくにも開国後約10年の時を経て、時の日本は新たな船出の時を迎えることとなりました。

参考:【街歩きと横浜史】横浜毎日新聞が伝える、創刊当時の世相と鉄道開通

 

“山手町”へ

国内での動乱は、徳川幕府亡き後も戊辰戦争、士族の反乱、自由民権運動と言った形でまだまだ継続していくことになるのですが、開港地・横浜山手の外国人居留地においては、新政権成立によって”文明開化”が奨励されたことから街の発展が軌道に乗り始めます。

明治8年には外国人居留地の整備の進展に伴って英仏両軍が居留地から撤退し、明治政府が主導した居留地の整備も明治20年代には完了すると、同32年には地域一帯が現在の町名である”山手町”に改称され、地域一帯に設定されていた(英仏が有する)永代借地権も昭和17年には消滅するに至りました。

 

参考資料

『横浜・中区史』、『横浜市史』他

 

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