横浜街歩き

【横浜街歩き/馬車道エリア】文明開化の街、馬車道歩き -西洋建築と「日本初」-

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馬車道の歴史的な由緒

現在の馬車道商店街一帯は、日本大通り地区や山手地区・元町地区と並び、開港後の横浜でほぼ最初期以来栄えてきた「文明開化はじまりの地」の一つにあたります。

地名の由来は、かつてここが馬車の発着場だったことにありますが、明治後半以降の馬車道界隈は、倉庫街や日本大通り地区と並ぶ貿易取引の現場にもなりました。

現在の馬車道地区に遺された歴史的な建造物の大半が「旧・銀行」だったことに、当時活況を呈していた生糸貿易の名残があります。

 

生糸貿易と旧銀行群

旧生糸検査所

馬車道商店街の入り口付近にある交差点の向こう側、赤レンガの建物は旧・生糸検査所です。

生糸検査所とは、明治29年=1896年に当時の農商務省の管轄下、官立組織として作られた組織です。かつての生糸貿易を支えた施設の一つで、旧生糸改会社が母体となっています。

同様の機能を持つ部署は関西の貿易港である神戸や、生糸の原産地である富岡(製糸場)にも置かれていましたが、出来上がった生糸の質のチェックが生糸検査所に与えられた役割でした。

ちなみに旧生糸検査所、現在は横浜第二地方合同庁舎として新たに”復元”され、財務省、国交省、防衛省等々、中央官庁の出先機関が入居するビルとなっています。

万国橋通り沿いから見た「旧・生糸検査所」。

正面玄関の車寄せの上にはふ化した蚕=カイコガがデザインされたエンブレムが、今でも置かれています。

生糸は、戦後まもなく自動車・電化製品等が輸出品目のトップになるまで、ダントツの主力輸出品でした。

絹製品の中では地場産業としての「スカーフ」が有力となり、横浜スカーフが名産品となりますが、それもこれも「生糸」と質のいいシルクあってこその話です。

 

旧第一銀行横浜支店

生糸貿易を主体とする産業の勃興を支えるため、かつての馬車道界隈には多数の銀行が作られますが、今に残る多くの建築物は関東大震災(1923年=大正12年9月1日)後に竣工されたものです。

そのことが当時の生糸貿易の勢いと、関東大震災の被害の深刻さ、双方を今に伝えています。

ちなみに、現在馬車道商店街の外で横浜都市創造センターの建物として使われている建物は、⠀かつて”第一銀行横浜支店”だった建物です。⠀

古代ギリシャの建築方式を模倣した作りが目を引く建物が建てられたのは1929年=昭和4年です。

関東大震災(1923年発生)の被災後であり、旧生糸検査所が現在の位置に作られた(1926年=大正15年)直後にあたります。⠀

建物付近から。

内部の様子。

 

旧富士銀行横浜支店

馬車道商店街の入り口付近にあるのが旧・富士銀行横浜支店の建物です。旧第一銀行横浜支店(現・横浜都市創造センター)と同じく、昭和4年(1929年)に建てられました。

共に関東大震災の被災から、6年後のことですね。

2001年まで旧富士銀行として機能した後、2002年に横浜市が取得、翌2003年には市認定の重要文化財に指定されました。⠀

現在(2005年~)は東京藝大大学院・映像研究科の馬車道校舎として使われています。

旧富士銀行横浜支店の右隣にわずかに見えている建物(馬車道大津ビル)は、1936年=昭和11年竣工の旧東京海上火災保険ビルです。2000年=平成12年に、横浜市認定歴史的建造物に指定されました。

この一角の斜向かいにあるのが、旧横浜正金銀行本店ビル(下の写真奥の建物)です。

 

旧横浜正金銀行本店ビル(現神奈川県立歴史博物館)

輸出品としての生糸の質を保つため、国の肝入りで作られたのが生糸検査所だったとすると、貿易を行う上での外貨決済を業務としたのが横浜正金銀行でした。

国際金融取引(貿易の決済業務)を扱う特殊銀行として1879年=明治12年に設立され、外国為替での公正な決済がその目的とされます。

現在の馬車道の顔でもある建物は1899年=明治32年に着工し、1904年=明治37年に竣工しました。⠀

横浜正金銀行の主な歴代頭取には、日銀総裁・横浜正金銀行頭取を兼務後に蔵相から首相となった高橋是清、後に日銀総裁・蔵相となった井上準之助、副頭取には慶応義塾塾長を務め、上皇陛下の皇太子時代に教育係(=東宮御教育常時参与)を務めた小泉信三などがいます。⠀

そのあたりの事情には、1919年=大正8年には世界3大為替銀行に数えられるまでに成長したこととも併せ、当時の日本経済が横浜正金銀行に寄せた期待のほどをうかがわせるものがあります。

ちなみに、「三大為替銀行」、残り二行は英植民地時代の香港にあった香港上海銀行、イギリスのチャータード銀行(現在のスタンダードチャータード銀行)です。

全盛期にはアメリカ、欧州、東南アジア、中国大陸など世界の各地に多数の支店を持つ銀行だったのですが、残念ながら1946年=昭和21年12月に営業停止となって普通銀行に改組され、旧東京銀行(現・三菱UFJ銀行)の母体となります。⠀

1969年=昭和44年、旧横浜正金銀行本店本館の建物は、国指定の重要文化財となりました。

馬車道沿いから。

ちなみに、旧横浜正金銀行本店ビルは、ビル自体の他、周辺にも見どころがいくつかあります。

馬車道側からだと裏手にあたる県立歴史博物館入り口付近には、山下町の旧居留地跡から出土した「オランダ製の大砲型・錨」という中々マニアックな一品が置かれているほか

馬車道側入り口付近には、馬車道に日本初のガス灯がともされたことを記念して作られた、イギリス・シェフィールドパークに置かれているものと同型のガス灯が設置されている、

通りを挟んだ向かい側の歩道沿いには、「牛馬飲水」と書かれた馬の水飲み場(遺構)が置かれている、等々。

ちなみに「牛馬飲水」は、鉄道開通前の馬車道が、乗合馬車の発着場だった頃の名残りです。

同じく馬車道地区にあるレストラン兼バー兼喫茶店の「馬車道十番館」前にも、同タイプのものが置かれています(後述)。

 

旧川崎銀行横浜支店

馬車道沿い、旧横浜正金銀行本店の隣は旧川崎銀行横浜支店で、かつての銀行の建物は1922年=大正11年に建てられました。

現在は、かつての支店の「正面の二面のみ」が残されています。

 

 

「日本初」と老舗店

馬車道も含めた関内地区は、はじめは外国人向けの商店街として拓かれたところが、やがて日本人向けにシフトしていったという歴史を持ちます。

その結果、西欧より数々の「日本初」が流入した地となりました。

日本写真の開祖

馬車道沿いに置かれた、「日本写真の開祖」下岡蓮杖さんの碑です。旧横浜正金銀行傍にあります。

写真の開祖とは日本最初期のカメラマンだということです。ほぼ同時期に活動した写真家には、江戸の鵜飼玉川さん(日本初の写真家)、長崎の上野彦馬さんなどがいたとされます。

三人とも、1860年代の活動が確認されていますが、下岡蓮杖さんは、長崎の上野彦馬さん共々、多くの弟子を輩出し、最初期の写真界に多大な功績を残されたようです。

 

日本初のガス灯

明治5年(1872年)の馬車道に日本で初めてガス灯が灯されたことを記念し、馬車道沿いにある関内ホール前には、当時のものと同型のガス灯のレプリカが置かれています。

二基のガス灯の後ろに埋め込まれているのは、当時の馬車道の様子が描かれたプレートです。

日本初のガス灯や電気の街灯が馬車道に灯ったことによって、馬車道では夜店が活況を呈するようになりますが、”横浜・中区史”によるとそのピークは明治40年代だったようです。

 

 

日本初の電気の街灯

馬車道の老舗の有名店といえば、カツレツの勝烈庵(昭和2年創業)。馬車道通りを少し入ったところにあります。

お店の前にある「ハマの街灯点火の地」記念碑は、ガス灯ではなく電気による街灯点火(明治23年=1890年)を記念してのものです。

「『ハマの』街灯点火」とあるのは、東京では既にこの約10年前、明治25年(1882年)に銀座に電気によるガス灯が設置されていることからですね。

勝烈庵のすぐ隣には「六道の辻通り」の碑が置かれています。

六道とは、仏教でいうところの、輪廻転生する6つの世界(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)のことで、そのまま解せば死後の世界への入り口のような、運命の分かれ道的ニュアンスを持っているとも取れます。

中々物々しい命名ですが、由来としては、単純に「昔ここに六差路があった」ということからのようです。

「六道の辻通り」碑石の向こうに見えているのは、1967年=昭和42年に「勝烈庵の十番目の店」として造られた、馬車道十番館です。

レトロなたたずまいのお店の前には、旧横浜正金銀行前と同じく「牛馬飲水」が残されています。

馬車道十番館、店内から。電話ボックスの隣は「牛馬飲水」です。

「カツレツ」後のひと時を過ごすにも、馬車道歩きの道すがらに一休みするのにもいい位置にあって、店内も落ち着いています。

ちなみに山手本通りにある山手十番館も、馬車道十番館と同じく、勝烈庵の10番目のお店として1967年=昭和42年に作られました。

 

日本初のトラス構造の鉄橋

馬車道商店街傍、JR関内駅北口付近の根岸線高架の下には、明治2年にかけられた「鉄(かね)の橋」、文明開化のシンボルとしても親しまれた吉田橋の記念碑が、設計者のブラントンさんの業績を讃える碑とともに置かれています。

ちなみに「トラス構造」の橋とは、桁の部分に△(三角形)の組み合わせが使われた構造を持つ橋のことです。

日本初の「鉄橋」ということだと長崎の銕(くろがね)橋、吉田橋の場合は日本初の「トラス構造」の鉄橋です。

 

 

吉田橋関門跡

横浜開港当初は来日した外国人を狙った殺傷事件も相次いで起こっていたような世相があったため、開港場でも取り締まり強化が必須となります。

最寄りの宿場町だった神奈川宿、保土ヶ谷宿などでの警戒を強化した他、安政6年(1859年)、開港場への出入り口に作られた吉田橋の傍にも関門が設置されました。

以降、この関門を基準として、ここより港側が関内地区、その外が関外地区とされます。

現在も地域一帯を指す通称名として残された”関内”とは対照的に、その役割を終えたと判断された吉田橋関門は、明治4年(1872年)に廃止されました。

現在、吉田橋の下には首都高速横羽線が走っています。

橋を渡りきると、すぐ目の前は伊勢佐木モールです。馬車道商店街から、道なりにつながっています。