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【伊豆半島】熱海・興亜観音(パール判事、松井石根大将、殉国七士)
縁起とロケーション
興亜観音縁起
興亜観音(公式サイト)は、昭和15年、当時の呼称で言う支那事変(=日中戦争)の戦没者を慰霊するために造られた観音像、および寺院です。
山号を含む正式名称は、礼拝山興亜観音です。
一度現役を退いた後に軍司令官として一時的に現役復帰した松井石根・陸軍大将(上海派遣軍司令官、中支那方面軍司令官を歴任し、南京攻略戦を指揮)が、復員後、アジアの平和を祈念する形で建立・創建しました。
その際には日本側だけでなく、中華民国側の戦没者も合祀しています。
時は流れて終戦後、GHQの対日占領政策において工作活動の核を為したWGIP、その最大の目玉政策だった東京『裁判』において、他ならぬ松井石根大将ほか6人が絞首刑の宣告を受け、実際に『法務死』を遂げてしまうのですが、今はその7人(以下、殉国七士)も日中戦争の戦没者同様、興亜観音にて祀られています。
なお、殉国七士の遺骨は、熱海の興亜観音の他、愛知県西尾市・三ヶ根山の殉国七士廟(一般社団法人殉国七士奉賛会 公式サイト)などでも祀られているようです(「など」について、長野県上水内郡の個人の敷地内でも祀られているようです)。
ロケーション
JR湯河原駅・熱海駅間の、熱海寄りのところに位置しています。
興亜観音の傍には国道135号線が通っていて、熱海駅からはバスも出ているので(熱海駅発伊豆山行バス乗車、興亜観音前下車。5~10分程度)、傍に行くことまでは割と簡単にできると思います。
ただしその先の道については、その限りではないかもしれません。
国道から枝分かれする形で伸びた坂道は、スマホのマップでも途中までしか記されていませんが、歩いていて「本当にこの道であってるのかな?」と、不安になるような道だった記憶があるんですね。
およその方向を把握した上で歩いていれば、最終的に行きつくことは出来ると思いますが、もしかすると道中若干不安を覚えることになるかもしれません。
興亜観音にて
興亜観音像
当日あいにくの天気だったこともあってか「これ、本当に興亜観音にたどり着けるのかな?」と、道中やや不安になり始めた頃、「あれ? ひょっとして?」という感じで遭遇することが出来た興亜観音像です。
位置的にはやや高いところに置かれています。
どこかひっそりとその場に立っていたという記憶があるのですが、この付近から、一帯は色々な意味でタイムスリップ感のある雰囲気を醸しはじめました。
すぐ傍にある、殉国七士の碑です。
殉国七士については、その場に名前も残されています。
観音像と共にある石碑等が今でもひっそりと佇むあたり、かつての日本の命運を賭した激動の歴史を偲ばせます。
興亜観音爆破(未遂)事件
興亜観音は、現在静寂に包まれた閑静な場所にあるのですが、実はかつてテロリストの標的にされたことがありました。
吉田茂首相の揮毫で作られた碑(三つの石碑のうち右側のもの)、および興亜観音像が、1971年、東アジア反日武装戦線(以下『東アジア』)を名乗るテロ組織のテロ行為の対象となったようです。
名が体をわかりやすく表していますが、『東アジア』は「社会主義革命・共産主義革命を目指し、平和な民主主義社会を暴力で破壊することを企てている」(警察庁による定義)という、いわゆる極左暴力集団(警察庁HP内 “極左対策広報”)と同様の活動を行っていたテロリスト集団です。
1970年代といえば、日米安保改正反対運動である安保闘争後に失速した学生運動の余韻(?)の中、左翼の内ゲバ(内紛)を経てより過激化・無差別化し、犯罪行為をいとわなくなった残党の一部が、爆薬を用いて物理的に日本社会の破壊を試みていたという、中々物騒な時代でもありました。
窃盗、盗聴、住居不法侵入等の他、テロをも辞さないなど、犯罪性向の強い左翼はしばしば「新左翼」などと呼称されますが、例えば前記した『東アジア』ともかかわりの深い国際テロ組織・日本赤軍(公安調査庁HP内 “国際テロ組織 日本赤軍”)、70年代以前からの勢力としては、元は同じ組織(
革命的共産主義者同盟=革共同)から対立を経て分裂した中核派、革マル派などが代表的なところとして挙げられます(中核派、革マル派とも、警察庁によって極左暴力集団に指定(警察庁HP内 “極左暴力集団の現状等”)されています)。
「新左翼」はなるほどそうか。なら「新」が付かない日本の左翼はまともなのかというと、あくまで「新左翼」に比べれば犯罪性向が弱いと目されている(?)程度で、例えば共産党(公安調査庁HP内 “共産党が破防法に基づく調査対象団体であるとする当庁見解”)などは現在も破壊活動防止法(破防法、公安調査庁HP)に基づいて公安調査庁の監視対象となっている、警察庁も引き続き監視を続けているなど、その活動内容が完全に過去の犯罪(明治憲法下での傷害致死、死体遺棄等)と切り離されているわけでもないようです(警察庁発行”焦点 第269号“『暴力革命の方針を堅持する日本共産党』平成16年7月1日)。
ともあれ、後に三菱重工はじめ、旧財閥系企業や大手ゼネコンを軒並み爆弾テロ(三菱重工ビル爆破事件(NHK放送史 三菱重工ビル 過激派が爆破)を筆頭とする、連続企業爆破事件)の対象としていった前記テロ組織『東アジア』が最初に標的としたのが興亜観音だったのですが、幸運にも観音像は無傷で、慰霊碑も若干の損傷を受けるにとどまったようです(石碑のひび割れは、爆破被害の補修跡です)。
パール判事、松井石根大将、殉国七士
東京『裁判』で連合国側の論理の欺瞞に与しなかったインドの法律家、ラダ・ビノート・パール判事も、かつて興亜観音を訪れたことがあったようです。
小さな資料館のような建物が併設されているのですが、
そこでは殉国七士が祀られている他、
殉国七士の最期の揮毫、
興亜観音を創建した松井大将の遺書、
及びその現代語訳、
遺品や遺影等が展示されています。
看護師集団自決事件(1945年8月)他殉難者の慰霊
第二次世界大戦の犠牲者、弔われるべき殉難者は、戦時国際法違反の無差別爆撃・原爆投下の犠牲者となった民間人をはじめ、軍人軍属等従軍したもののみには限られません。
ということで、興亜観音では、日中戦争の日本・中華民国両陣営の犠牲者、殉国七士の他、当時の日本が建国した満州国の新京特別市(現在の吉林省長春市)や樺太で終戦期に集団自決した看護師、電話交換士(NHK “自決した真岡郵便局の女性たち 同僚の記憶”)など、約50人の若い女性も祀られています。
新京での話については疑義が呈されている側面もあるようですが、これらの事件については『樺太大平炭鉱病院殉職看護婦慰霊碑(札幌護国神社内)』『青葉慈蔵尊(さいたま市西区、青葉園内)』『九人の乙女の碑(稚内公園内)』など、個別の慰霊碑も残されています。
事の発端は第二次大戦末期、日本が属する枢軸国陣営の敗戦が決定的になった時点で交わされた連合国側の密約(ヤルタ協定)によって、ポツダム宣言受託の前日(1945年8月9日)にソ連軍が対日参戦し、満州及び南樺太・千島列島に軍事侵攻したことにあります。
ソ連の侵攻は同年9月5日(玉音放送は8月15日、終戦は9月2日です)まで続き、満州や樺太は非武装の日本人居留民にとって文字通りの地獄と化したようです。
ここで非戦闘員である若い女性は、このままソ連兵に凌辱されるか、それとも純潔を守って死を選ぶかという究極の二択を迫られたようで、集団自決した女性たちは後者を選んだということなのでしょう。
諸々振り返ってみれば、第二次世界大戦末期及び終戦後に「平和に対する罪」及び「人道に対する罪」(双方とも第二次世界大戦後に国際法として明文化された概念です)を犯したのは果たしてどちら側陣営だったのかなんて話にもつながりそうですが、現在は興亜観音でも彼女たちの霊を慰めるべく祭壇が設置され、供え物が供えられています。