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【冬の東北・信越青春18きっぷ旅/鶴ヶ城周辺の史跡4】秋月悌次郎詩碑、横山武翁碑
秋月悌次郎詩碑
秋月悌次郎さんは、戊辰戦争に従軍した、というよりは会津戊辰戦争の最終盤、鶴ヶ城(公式サイト)での籠城戦で指揮を取った会津藩士です。
幕末期より会津藩の外交に尽力し、終戦後は新政府に請われる形で中央に出仕、主に大学教育に関連する場で活躍しました。
・・・と有り体に飾りっけなくまとめると「幕末会津藩ではボチボチ見かける、スバ抜けて優秀な人の一人」なのかなといったイメージが宿りそうですが、秋月悌次郎さんの場合はそのスバ抜け方が並ではなく、江戸幕府在りし日に昌平黌にて舎長(=首席)を勤めた人物だったようです。
要は、当時の日本一の秀才だった、とてつもなく頭が良い人だったということですが、桜田門外の変後には幕府と水戸藩の調停を請け負った他、その頭脳を以って京都守護職時代の松平容保の側近を勤め、長州過激派、およびその一派に同調する公家を京から追放したという”八月十八日の政変”を指揮するなど会津藩の外交に尽力、籠城後の戦後処理も主導したようです。
戦後は多くの優秀な後継に薫陶を授けることになったというように、地味といえば地味な役回りではありながらも、強烈な存在感を示した”人物”だったようです。
“詩碑”は、その秋月悌次郎さんが戊辰戦争敗戦直後の戦後処理に奔走する中で認めた詩、”北越潜行の詩”(”勝てば官軍負ければ賊軍”と言われた戦いの戦後処理を進めていた当時のやるせない内心を、詩の形で吐露したもの)を碑にしたものです。
参考:会津若松市公式サイト “幕末の会津藩を支えた公用人 秋月胤永(通称・悌次郎)“、BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) “幕末で日本一の秀才だった秋月悌次郎“
横山武(鶴ヶ城再建に尽力した市長)翁碑
前記した秋月悌次郎詩碑が置かれた一帯は他にも様々な碑が置かれた”碑石エリア”となっているのですが、そのすぐ隣には、
鶴ヶ城再建時の会津若松市長であり、お城の再建にも尽力したという、横山武さんの像と碑が設置されています。