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長崎港の開港前史 -九州と対外交易-
九州では、元々北端に位置する博多港が、対外交易港として早くから拓かれていました。
古くは付近(博多湾内に浮かぶ志賀島)にて”漢委奴国王“と書かれた金印(57年、後漢の洪武帝から贈られたものが、江戸時代の中期に発見されました。参考:福岡市博物館 “金印“)が贈られた時代からのキャリアを持つ港は、遣隋使や遣唐使の拠点となった後、長崎が西欧に対して開かれた安土桃山時代以降は日明貿易の拠点としても栄えます。
国内では、早い時期から瀬戸内を通じて近畿(開港五港の中では、後の神戸港となる大輪田泊=兵庫津)エリアと結ばれていたほか、江戸時代には国内海運の拠点として大きく繁栄しました。
反面、鎌倉時代末期には”元寇”の形で元の襲来を受けたほか、戦国時代には戦国大名による争奪戦の対象地となるなど、繁栄地一流の理由によって戦乱に巻き込まれることも多々あったのが、博多港が持つ歴史です。開港の故はひとえにその立地に宿りますが、そもそも九州自体が持っている「日本国内の西端に位置する」という地理的な要因から、やがて九州各所に位置する幾つかの(特に、東シナ海に面した)港も博多港同様に、海外に対して開かれていきます。
参考:博多港公式サイト “博多港の歴史“、福岡市博物館 “日明貿易と博多“
開港五港の中では、というよりは国内で最も早く西欧に開かれたという”最古の対西欧交易港”的イメージの強い長崎港(公式サイト)のキャリアは、元々は古来より中国との交易拠点として栄えて来た平戸港に始まりました。
“平たい門戸”の意味を持つと言われる港・平戸港は、博多港同様遣隋使・遣唐使の渡航先としての由緒を持つ延長で、16世紀には対西欧の窓口港として白羽の矢を立てられます。
ここが、現在につながる”開港都市・長崎”のスタート地点ですね。
1543年の薩摩藩領・種子島へのポルトガル船漂着を契機として、やがて1550年に平戸が、1562年に大村領横瀬浦がそれぞれポルトガルに対する貿易港として開かれると、最終的に1571年に長崎港(現在の長崎市中心部)が開港されました。
元々はポルトガル一国を相手として、後にスペイン、オランダ、イギリスも相手国として進んだ16世紀の対西欧交易は、最終的には長崎港(出島)一港にて、オランダ一国を相手国とした江戸時代の貿易へと絞り込まれますが、開港後の長崎は、日本から遠く離れた異国の文明が入り込む街としての歩みを始め、江戸時代の最初期(徳川幕府による禁教令発布の直前期)には”小ローマ”と称えられるほどの繁栄を謳歌することになりました。
平戸港も17世紀の半ばまで機能し続けますが、最終的に対西欧貿易は長崎港(特に出島)一港に収れんします。
余談として、長崎開港後(特に江戸時代)の九州エリアはまた、前記したように博多港が国内海運の拠点となったほか、古来より遣隋使・遣唐使等の寄港地でもあった長崎の対馬が対朝鮮の交易拠点(朝鮮通信使の寄港地)となる、鹿児島港が対琉球貿易の拠点となるなど、いわゆる”四つの口”と言われた制限貿易時代の対外交易拠点のうち”三つの口”(対欧州、対中国、対朝鮮)を有する一大拠点として、繁栄しました。
参考:近世欧州との交流、織豊政権から江戸時代へ、出島の誕生と、”鎖国”に至る交易事情、国土交通省公式サイト “歴史・文化を活用したみなとまち作り・平戸港“、平戸城 “平戸の年表“、長崎県公式サイト “対馬重要歴史年表“、対馬観光物産協会 “国境の島・対馬の歴史を紐解く“、みなと総合研究財団 “鹿児島港の「みなと文化」“