【元町中華街エリア】横浜外国人墓地(山手本通り沿い、ブラフ99ガーデン隣、見尻坂傍)

元町・中華街(山下公園)駅
この記事は約6分で読めます。

横浜山手・外国人墓地

ロケーション・入苑情報・沿革

ロケーション

横浜山手の外国人墓地は、みなとみらい線元町・中華街駅最寄り、山手本通り沿いに位置しています。

アメリカ山公園からの上り坂の延長線上、山手本通りとの交差点の元町側にて、見尻坂や貝殻坂、元町公園に隣接しています。

墓地は元町公園同様丘の斜面に広がっているので、敷地の上側が山手本通りに面すると同時に、下側では「商店街」でお馴染みの元町エリアに隣接する形となっています。

通り沿いから見えるイメージ以上に広いのも、外国人墓地の特徴です。

ちなみに、元町公園と反対側の並びにはブラフ99ガーデン、ブラフ99ガーデン方向へ向かう山手本通りの突き当りには港の見える丘公園があります。

参考

入苑情報

通常は墓地内非公開となっていますが、その例外として、

  • 2月から7月、9月から12月までの毎土日と祭日(雨天以外)
  • 12時00分~16時00分
  • 外国人墓地の維持管理のための募金(500円程度)への返礼という形での「入苑」

が許可されています。それ以外、通常時は、

  • 9時00分から17時00分まで
  • 月・火休館

以上の条件で資料館が無料一般公開されています。

参考

外国人墓地のはじまりと、開港期横浜の「墓地」事情

  • 1854(嘉永7)年:増徳寺境内にて、外国人墓地の歴史が始まる
  • 1861(文久元)年:墓域が見尻坂沿いへ
  • 1866(慶応2)年:現在の墓域に拡張
  • 1871(明治4)年:清国人の墓地が現在の中華義荘へ移転される
  • 1902(明治35)年:根岸外国人墓地新設

ときは1854(嘉永7)年。ペリーの艦隊=米海軍東インド艦隊が日本に寄港した際の話しです。

航海中の事故によって死亡した艦隊の水兵を葬るため、ペリーによって「海の見える墓地」が望まれたことを契機として、同年より横浜における外国人墓地の歴史が始まりました。

当初元町界隈にあった増徳院(関東大震災被災後、現在地に移転 ※)の境内の一部が外国人墓地として使われたのち、1861(文久元)年には現在の元町側通用門付近(見尻坂沿い ※2)が墓域となり、1866(慶応2)年にはほぼ現在の墓域まで拡張されました。

その後1871(明治4)年には当時の清国人の墓地(※3)が中区大芝台に移転されたほか、1902(明治35)年には新たに根岸地区(中区仲尾台)にも外国人墓地(根岸外国人墓地)が作られました。

このほか「根岸地区の墓地」ということでは、開港後の横浜の人口急増、震災や戦災の犠牲者への対応を余儀なくされる形で、かつて旧町名(根岸村相沢)を取る形で相沢共葬墓地と呼ばれていた、現在の根岸共同墓地(日本人の埋葬地)があります。

参考

正門・資料館

正門、JHモーガンとの縁

中央付近に写るのが外国人墓地の入り口である正門、右手にあるのは資料館とその入り口です。

正門は、公式サイトには「山手門」公式パンフレットには「山手大門」と記載がありますが、以下、「山手(大)門=正門」として進めます。

現在の正門の前には一代前の正門がありますが、公式サイト(※)で「旧山手門」とされている一代前の正門は、近代横浜にいくつもの西洋建築を残したJ.H.モーガンの作です。

現在、モーガンさん自身も山手の外国人墓地に眠られています。

現在の外国人墓地でも門柱部分には「モーガン作」がそのまま残されていますが、残念ながらかつての門扉部分(鉄製部分)は戦時体制のあおりを受ける形で解体されているため、門扉部分のみ「先代を模して作られたレプリカ」が後付けされています。

J.H.モーガンさん設計の建築物は、外国人墓地の正門の他、山手111番館、横浜山手聖公会聖堂、ベーリックホールなど、現在の山手地区にも残されていますが、港の見える丘公園内の山手111番館ではモーガンさんの遺品や関連資料が常設展示されています。

参考

外国人墓地資料館

外国人墓地正門=山手門の隣にある小さな門をくぐると、

外国人墓地の資料館前に出ます。

資料館では、外国人墓地自体の沿革や、横浜市内の他外国人墓地の歴史について触れた案内書きが展示されています。

“墓地の資料館”然とした室内にある窓外すぐのところには、

眼下に墓地が広がる様子が望めますが、

土日・祝日であれば、墓地内を見学することが出来ます。

外国人墓地・苑内へ

外国人鉄道技術者・エドモンド・モレルの墓

日本初の鉄道敷設に功績のあった外国人のうち8名が横浜山手に眠り、その墓所は全てが鉄道記念物、あるいは準鉄道記念物に指定されています。

その功績は現在もJR東日本によって称えられているのですが、

そのうちの一人は、JR桜木町駅前にも記念碑(レリーフ)がある、エドモンド・モレルさんです。

ちなみにモレルさんの墓は、8名の中で唯一、旧国鉄によって「鉄道記念物」に指定されています。

鉄道をはじめとする公共交通機関の運賃の支払いがICカードメインとなって久しい昨今、「懐かしアイテム」感も漂う鋏が入った切符がかたどられた石碑と共に、

功績が碑文で称えられています。

ジョン.R.ブラック、快楽亭ブラック父子の墓

「日本初の外国人タレント」とも言われるヘンリー・ジェイムズ・ブラックさん、すなわち英国籍のオーストラリア人噺家である快楽亭ブラック=石井貌剌屈(いしい ぶらっく)さんは、父親であるジョン.レディ.ブラックさんの隣に眠られているようです。

ちなみに、「快楽亭ブラック」さんの父であるジョン・ブラックさんは、日本のメディアの黎明期に日本で活躍した外国人ジャーナリストとして有名です。

日本初の日刊新聞であるジャパン・ヘラルドで編集=主筆を務めたのち、近代日本の新聞メディアの先駆けとなった日新真事誌を創刊しました。

ジャパンヘラルドは日本初の英字新聞として、日真真事誌は近代日本の新聞の創世期に発刊され、後の自由民権運動につながる「民選議院設立建白書」を掲載(1874年=明治7年)したことで、それぞれ有名となった新聞です。

横浜との縁ということでは、初の日本語新聞である「海外新聞」、および初の日刊新聞である「横浜毎日新聞」の創刊は、「ジャパンヘラルド」及び「日真真事誌」創刊の間の出来事です。

「ジャパン・ヘラルド」創刊が1861(文久元)年11月23日、その後

  • 海外新聞創刊:1864(元治元)年 or 65(同2)年
  • 横浜毎日新聞創刊:1871(明治4)年

を経て、1872(明治5)年3月の「日真真事誌」創刊へとつながります。

参考

マリア像

2000年(平成12年)に廃校となった、セント・ジョセフ・インターナショナルカレッジのマリア像も、外国人墓地内に安置されています(現在は、風化しつつある坂名”セント・ジョセフの坂“に、その名残がわずかに残されています)。

タイトルとURLをコピーしました