【街歩きと横浜史】近代横浜の始まり -開港場と周辺エリア-

街歩きと横浜史
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外国人居留地の発展と拡張 -山下と山手-

開港地・横浜では、“東海道”へのアクセス状況など、開港当初から抱えていた諸々の問題点もあるにはあったものの、開港後ほどなく”対外交易”の勢いにけん引される形の発展が始まります。

この時に急務となったのが、海外居留民のための居住区の整備でした。

開港場と付近の発展 -近代黎明期の山下町-

中区・山下町は、現在山下公園や横浜中華街があることでもおなじみ、みなとみらい線沿線でも屈指の人気を誇る観光エリアです。

開港当時は現在の同町の代名詞ともいえる”山下公園”は存在せず、”後の山下公園”一帯は海岸線を形成していたのですが、開港(1859年=安政6年)以来急ピッチで構築されたという波止場・開港場(現在の象の鼻や、日本大通りエリア)に隣接していたことから、外国人居留地として近代のスタートを切ることを余儀なくされました。

東京湾沿いの長閑な一寒村に、半強制的に近代の夜明けが訪れた形ですね。

明治6(1873)年には現在のホテルニューグランドの前身であるグランドホテルが開業し、明治8(1875)年には街中にガス灯が整備されるなど、国際色豊かな貿易の街としてのインフラも華やいでいきますが、“当時の横浜”の整備は法的な面からも進みます

“横浜史”ではなく”日本史”の話しとして、明治27(1894)年、外相・陸奥宗光はイギリスとの間に日英通商航海条約を締結しますが、以降、他に通商関係を結んでいた各国とも次々これに倣う形で”通商航海条約”を締結したことによって、日本の開国後の長らくの懸案事項であった不平等条約の一部改正(領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部回復)に成功します。

その結果、日本国内に居住する外国人に内地雑居(居留地以外の地域への居住移転の自由)が許可されることとなり、ここに“外国人居留地”の有名無実化が始まるのですが、明治32(1899)年には反対に日本人一般にも外国人居留地内への移動が許可され、”内地”、および外国人居留地内の法的な敷居が事実上撤廃される運びとなりました。

ある日突然”文明開化”の最前線を担うこととなった港町の一画は、やがて通商条約を締結した諸外国の銀行や商館が立ち並んで活況を呈したという、異国情緒あふれる華やかな街となっていったのですが、当時の居留地界隈は、現在の横浜ともまた別の魅力を持つ街だったようです。

時あたかも、彼我公園(かつての横浜公園)での“日本代表”vs外国人居留民の国際試合が注目を集めた明治半ば。旧制一高野球部や慶應義塾ラグビークラブの”代表戦”に挟まれる形で実現した共存共栄時代の到来によって、山下町を中心とする開国後の居留地社会は、一つの理想的な帰結に到達します。

参考

山下居留地から山手居留地へ

開港後、ほどなく山下居留地は手狭となりますが、この時に”次の居留地”候補となったのが、現在中区内で山下町に隣接する山手町エリアでした。

現在の町名とも相俟う形で(?)そこはかとなく華やかなイメージを持ち、なおかつロケーション的にも横浜中華街や山下居留地界隈に隣接するという、”開港場傍の、高台の一等地“ではありますが、元々は所々に畑が点在する、原野とも山林ともつかない丘陵地だったようです。

そんな”横浜山手”ですが、

  • 万延元(1860)年:列強間で“第一回地所規則”が調印され“山手”が居留地候補となる
  • 万延2(1861)年:幕府側がこれを承認し、“横浜山手”が外国人居留民に開放される
  • 文久2(1863)年:“横浜居留地覚書(第二回地所規則)”が幕府と四国(英仏米蘭)代表間で承認される

という経緯を経て、ほぼ開港直後から正式に居留地として開拓が促進されることとなりました。

幕府が”受け入れ”を容認した背景には「山手移転を受け入れることによって、東海道の神奈川宿を立ち退いてくれるのであれば、それはそれで好都合ではないか」という、どちらかというとネガティブな本音もあったようですが、元々は”居留民”も一枚岩ではなく、特に諸外国の公使や総領事は山手移転には積極的ではなかったようです。

商人たちとは違って最後の最後まで”神奈川”開港に固執していたため、”横浜”開港を受け入れがたかった(結果、駐日公館の山手移転を渋ることになった)んですね。

やがて各国商人の横浜居住が進み、さらに旧来(鎖国時代)より幕府と付き合いのあったオランダが率先して動く形で”領事館の山手移転”を提唱すると(もっとも、オランダは公使館も領事館も山手には移転させなかったようですが)、他国も「もはや横浜開港を認めざるを得ない」として、これに追随する形で山手への領事館・公使館移転を希望します。

それが希望ではあったものの、微妙な含みもなくはなかった、ということですね。

結論としては英仏米蘭四国による一方的な提唱が形になったものだったという色が濃かった“覚書”=第二回地所規則にしても、時あたかも幕末の乱世であり、外国人殺傷事件が相次いで起こっていた時代だったという状況が状況なだけに、幕府としても受け入れざるを得ない立場に立たされていました。

余談として、”山手”が外国人居留民に解放された万延2(1861)年、イギリスは早速海軍用地として横浜山手の地を借り受けていますが、さらに慶応2(1866)年には、現在港の見える丘公園がある地にイギリス公使館が作られました(同地には、後にイギリス総領事の公邸が置かれます)。

これが、現在の”丘公園”中心部とイギリスの縁のはじまりです。

参考

乱世と開港地 -横浜に上陸した英仏軍-

山手への外国人居留民の受け入れがなし崩し的に始まり、なおかつ正式に決まろうとしていた文久2(1862)年、薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件である生麦事件が発生します。

翌文久3(1863)年、”生麦事件への報復”という性格を持つ薩英戦争が勃発したほか、過激派志士の巣窟となっていた長州藩尊攘派による”攘夷”として、関門海峡を通過する外国船への砲撃が行われました。

文久4/元治元(1864)年には、四国(英仏米蘭)艦隊による長州藩への報復である下関砲撃事件が発生し、長州藩の全砲台が四国の連合軍によって占拠されますが、言うまでもなくこれら一連の出来事は、全て日本側の”攘夷”が武力衝突を呼び起こしてしまったという類の紛争です。

そのため時の横浜では、これらのことを契機として自国の居留民保護の名目の下に英仏軍が居留地に上陸し、以降常駐することとなりました。

横浜での英軍と仏軍は、身に付けている軍服の色から、それぞれ赤隊(英軍)青隊(仏軍)と呼ばれたようですが、仏軍は現・谷戸橋(元町中華街駅・元町口傍)付近に駐屯して現在のフランス山地区一帯を占拠し、英軍は現在の港の見える丘公園の”丘”部分(横浜市イギリス館を中心とする、公園の中心エリアです)に兵舎を作って駐屯します。

現在ビヤザケ通り沿いから外国人墓地前にかけて通されている陣屋坂に英軍が陣取っていたのは、およそこの時期の出来事ですが、以下は余談として。

国内での動乱は、徳川幕府亡き後も戊辰戦争、士族の反乱、西南戦争、自由民権運動や激化事件、さらには大正政変から大正デモクラシーへ、最終的には5・15や2・26からの翼賛政治へと言った形で、薩長藩閥が主導した明治国家の破綻に至るまで果てしなく継続しますが、それはさておき、開港地・横浜山手の外国人居留地においては、新政権成立によって”文明開化”が奨励されたことから街の発展が軌道に乗り始めます。

明治8(1875)年には外国人居留地の整備の進展に伴って英仏両軍が居留地から撤退し、明治政府が主導した居留地の整備も明治20年代には完了すると、同32(1899)年には地域一帯が現在の町名である”山手町”に改称されました。

地域一帯に設定されていたという英仏が有する永代借地権(=安政の五か国条約で定められた、土地の永久的な借地権)も、昭和17(1942)年に消滅しています。

参考

元町商店街の誕生

横浜村からの移住、横浜本村から”横浜元町”へ

“安政の五か国条約”締結によって開港場に指定された横浜村では、開港に向けた波止場や運上所の設置を筆頭として関連施設の建設が始まりますが、この時に元々横浜村に住んでいた住民の強制移住も同時に進みます。

時あたかも”安政の五か国条約“批准による開港直後の話しですが、横浜村を新たに貿易港として拓くため、関連施設の用地としてその場を空ける必要があったんですね。

当然、移住の当事者的には複雑な思いも多々あったことでしょう。

移転後の住民たちは、移転先において「ここは元々横浜村の住民だった自分たちが住む村なんだ(ここが本当の横浜村だ)」ということで、当初は新天地を”横浜本村=横浜元村”と呼んでいた時期もあったようですが、やがて正式に”元町”と地名変更された地では、ほどなく山手居留地の外国人居留民たちも利用する、”元町商店街”としての歩みが始まりました。

山手居留地“元町の商店街”も、共に横浜開港を契機として誕生し、以降の歩みを共にします。

参考

初期元町の発展

初期の元町の特徴としては、国際色が豊かな商人の街として栄えた表通り(現在の元町商店街)と、その傍で形成される職人の街(元町商店街隣に通された、現在の元町仲通りとその付近)が対になっていたことが挙げられます。

”舶来品を扱うおしゃれな街”イメージと共に、”職人の街”風の雰囲気を醸していたのがかつての元町だったようで、例えば現在の元町商店街エリアで販売される家具などは、かつては全て商店街付近(山手側の一帯)で作られていました。

販売される家具や日常雑貨の高級化(商品を求めるお客さん側のニーズの多様化・微細化)に歩みを合わせる形で製造過程も分業化しますが、製造過程の分業化は職人の専門分化を促すと同時に、”商”(オーダーを受け、製品を販売する)と”工”(オーダーされたものを作る)の分業も促します。

そのことがオーダーに忠実な完成品製造を可能とした一方で、当時の元町が持っていた”モノづくりの街”としての一面を成長させて行くことになった他、”かつての元町”ということでは、良質かつ豊富な湧水を利用することによって興された給水業、さらには西洋瓦・レンガ工場があったこと(現在の元町公園内とその周辺に、かつての面影が残されています)なども、外せないポイントです。

参考

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