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【冬の東北・信越青春18きっぷ旅/戊辰戦争の跡3】新選組三番隊組長・斎藤一の墓

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【冬の東北・信越青春18きっぷ旅/戊辰戦争の跡3】新選組三番隊組長・斎藤一の墓

斎藤一と会津藩

斎藤一(藤田五郎)の墓

阿弥陀寺会津若松七日町通り “阿弥陀寺“)境内、御三階傍には、新選組で三番隊組長を勤めた斎藤一の墓があります。

墓石には”藤田家の墓”とありますが、これは斗南に移転した頃、会津藩・藤田家の養子となって、藤田姓の”藤田五郎”を名乗るようになったことに依っています。

新選組・斎藤一は「会津藩と心中する」覚悟で会津戊辰戦争を戦い、戦後会津藩が斗南に移封された際には自身も斗南に移転する、後に会津藩・藤田家の養子となって藤田姓を名乗るようになり、会津藩大目付・高木小十郎の娘である高木時尾と結婚するなど、会津戊辰戦争以降、終生を”旧・会津藩”と共にしました。

幕末の京の街で名を挙げた後に戊辰戦争で各地を転戦し、最終的に”会津の人”となった点は、新選組”組長”クラスの隊士の中では異質な経歴かもしれません。

最後まで新選組と命運を共にした”鬼の副長”土方歳三は、斎藤一にとって、近藤勇亡き後の新選組を共にリードしたという盟友にあたる人物ですが、その土方歳三の生きざまに比しても中々に好対照に映えてくるのが斎藤一の生きざまではないでしょうか

・・・などと言ったことを、改めて感じさせられました。

ちなみに新選組・近藤勇の墓と土方歳三の慰霊碑も、同じく会津若松市内にあるようです(参考:会津若松観光ナビ “天寧寺・近藤勇の墓“)。

about 新選組

ところで、改めてですが、新選組は元々は江戸で結成され、後に京の壬生みぶ壬生寺公式サイト)を拠点とすることになった”浪士の集団”でした。

幕府の呼びかけによって結成された”浪士組”には、後に新選組の中心となって活躍することになる天然理心流・試衛館の面々の他、水戸藩を脱藩したと考えられている浪人も数名程度含まれていたという、元々は開国・開港を進めていく幕府に対して敵対勢力となることが期待されて作られた(“攘夷”を主目的とすることが暗に含まれていた)面も有していました。

幸運にも(?)、やがて浪士組結成にまつわる”政治工作”的な(幕府を欺く形で”攘夷”目的が潜まされていた)部分が切り落とされると、以降、鉄の掟(有名な”局中法度”ですね)で”佐幕”を貫く武闘派集団・壬生浪士組としての活動を開始します(1863年)。

“壬生浪士組”活動開始と同年、会津藩士・秋月悌次郎が中心となって実行された八月十八日の政変後には”新選組”と改名し(1863年)、翌年、池田屋事件での活躍が買われる形で”会津藩預かり”となると(1864年)、以降会津藩の指揮下で活動することとなり、最終的には一般隊士が寄合格、組長が旗本格での幕臣待遇(幕府の直轄組織)へと繋がった後(1867年)、隊を挙げて戊辰戦争へ参戦し、”隊”としての最期を遂げることとなりました。

この激動の活動経歴の中、試衛館(試衛場)にて天然理心流の稽古を通じて知り合い、以降終生の付き合いとなったという最古参の近藤勇、土方歳三、沖田総司は”新選組に生き、新選組に死す”といった人生を歩むことになり、会津戊辰戦争後も生き残った土方歳三は箱館で戊辰戦争が終結するまで転戦を続け、最終的に五稜郭の戦いで戦死しました(参考:土方歳三と五稜郭、戊辰戦争)。

一方で、素性にも新選組とのかかわりにも色々と謎が多い、京都以降の隊士であるとされる斎藤一の場合、新選組への思い入れはそこまで強いものでもなかったという面は多少なりともあったのでしょう。

近藤勇亡き後は土方歳三と共に隊を率いて来た後で、会津にて、それぞれが別の道を歩むこととなりました。

参考:歴史春秋社『会津藩と新選組』2023.9.30 他

主要スポット(阿弥陀寺境内、御三階傍)

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