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【冬の東北・信越青春18きっぷ旅/旧信越本線区間8】しなの鉄道線・軽井沢駅にて
旧・信越本線の跡
しなの鉄道線・軽井沢駅
“八ヶ岳高原線”の愛称を持つJR小海線への接続駅でもある小諸駅を出発した後、しなの鉄道線はほどなく、終点の軽井沢駅へ到着しました(参考:小諸駅着、軽井沢駅へ)。
旧信越本線の軽井沢駅は現在しなの鉄道線の軽井沢駅(しなの鉄道線公式サイト)となっていて、JRでは唯一、北陸新幹線のみが停車します(しなの鉄道・JR双方の行き来は容易です)。
軽井沢駅の歴史的には一つの区切りがあって、北陸新幹線開通以降は在来線と新幹線が切り離された形になっているのですが、そこにあるのは新たに三セク鉄道の駅となった”新生・軽井沢駅”の色合いが濃い空間ではなく、かつての面影をそのまま残した”元・信越本線の軽井沢駅”風味の駅構内です。
“それでも軽井沢駅は軽井沢駅なのだ”という感じですね。
ホームの形も結構変則的なのですが、”かつて”を継承している現・しなの鉄道線のホームから続く、”駅ホーム風”の雰囲気を残したスペースへとそのまま歩いてくると、そこにかつての軽井沢駅が残されています。
旧・信越本線の跡
駅構内でかつてが残された一画には、その昔の信越本線で碓氷峠超えを担っていた機関車も残されています。
まずは昭和の半ばころに現役だったというEF63型機関車と、
その後ろには、”碓氷線”(信越本線横川駅・軽井沢駅間の別称です)超えといえばこの鉄道、というくらいには登場することになる、”アプト式鉄道”の先駆となった機関車も残されています。
日本初の電気機関車、10000型(国鉄EC40型)ですね。
昭和39年(1964年)には、当時の国鉄によって鉄道記念物に指定されているようです。
“アプト式”とは、かつて鉄道が急こう配を登るために開発されたシステムで、線路の真ん中に歯車を噛ませることによって推進力を上げる、という仕組みになっています(命名は、開発者の名前から。参考:鉄道文化むらと”アプトの道”)。
横川駅傍に位置する碓氷峠鉄道文化むら(公式サイト)には”アプト式鉄道”の線路が残されていますが、線路のちょうど真ん中に設置された、イカツイ歯車をその特徴とします。
さらには、どこか国鉄時代を思わせるというような、昔懐かしい旧型の駅名標や、
かつての軽井沢駅舎など、全てホームから繋がっています。
ちなみに旧駅舎については、北陸新幹線開通時に取り壊され、後に復元されるという形で現在の状態になったようです。駅自体に味わいがあるという歴史的な空間となっていて、時間があれば、各種のお店の開業時間帯にゆっくり見て周りたい施設でもあります。
エピローグ
本来であれば、ここでゆっくりこの日の余韻に浸りながら、ボチボチ混んでいるのかもしれない(ということは想定していました)年始の軽井沢駅(もしくはその周辺)にて夕食、さらには食後のお茶の時間でも楽しみながら今回の旅そのものを振り返ってみよう、なんて考えていたのですが、この日は1月1日、時刻は丁度16時ごろでした。
後から振り返るのであれば、周知のように、という日付けであり、時間帯ですね。
しなの鉄道線下車後、改札を出てJR軽井沢駅方面に設置されているバス乗り場を目指していたところ、随分久しぶりにスマホが緊急地震速報(緊急地震速報を受信したときの警報音。クリック先では音量に注意してください)を受信しました。
慣れてくると「またかよ」となる、久々に来ると無駄にびっくりするという、例の警報です。
今回は受信そのものが何年かぶりでした。
第一報から先は、矢継ぎ早のように情報が更新され続けました。
おまけに、つい先ほどまで楽しんできた”オーシャンビュー”路線を含む新潟県の海岸線にも津波警報(能登半島については、後に大津波警報)が出されていたようで、この辺りからですね。徐々に現実感が薄らいで行ったのは。
頭で理解出来ているはずのことを肌感覚では認知し切れていないと感じる、行動に実感が伴わないように感じるという、どこか3・11の時以来の感覚を味わうことになりました。
その意味では、この時たまたま旅先の地にあったことや、この日が1月1日だったことも、今にして思えばかなり大きかったですね。
北陸新幹線も地震発生時に止まっていたようで、軽井沢駅もものすごくごった返していました。売店から何から大混雑で、ともするとお店っぽいエリアには安易に近づくことすら出来ない(人多過ぎ)という状況です。
待合室のNHKテレビにも、恐らくはいつも以上に人が集まっていたのでしょう。今日日、皆スマホ持ちではあるでしょうし、その場合は自分の端末で確認できるといえば出来るのですが、それでもなおという状況ですね。
結局この後、新幹線はしばらく止まっていたようですが、長野県・群馬県あたりの陸路には取り立てて(今回の能登半島地震の)影響はなかったということで、無事、横浜方面へと向かうことが出来ました。
最後になりますが、今回の能登半島地震で被害を受けられた皆様に心よりお見舞い申し上げますと同時に、一刻も早い被災地の復旧を心よりお祈り申し上げます。