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【冬の東北・信越青春18きっぷ旅/鶴ヶ城周辺の史跡3】萱野国老殉節碑
萱野国老殉節碑
会津戊辰戦争最後の戦いである”鶴ヶ城での籠城戦”の後に降伏することとなった会津藩では、近世までの(サムライ同士による)戦争の習わしとして、「新政府軍を相手とする戦後処理」を迫られることになりました。
戦後処理とは即ち”政治的な決着”を意味しています。
“サムライ”の戦い的には、城の明け渡しや、敵方の大将(=戦争指導者)の首を取ることで責任の所在や彼我の勝敗を明確にすることなどが求められていく場面ですが、ここで新政府軍は会津藩藩主・松平容保を責任者と目さず、藩の重役級(≒家老)をターゲットとしました。
曰く、開戦と戦争遂行の責任があると考えられるのは孝明天皇の信任も篤かった容保ではなく、容保に仕えた指導者の某かにあるのではないか(だからそのものが名乗り出よ)との主張が為されることとなったのですが、この新政府側の要求が本当に言葉通りの意味のみを持つものなのか、それとも”武士の情け”的な含みを持ったものなのかといえば、説明書きにも「萱野国老が藩主父子の除名嘆願にに尽力した」とあるように、恐らくは、というか十中八九後者なのでしょう。
結果、藩主・松平容保に代わって責任を取れるものは萱野権兵衛・国家老(江戸ではなく、領地で勤務する家老)の他には既にいなかった(既に自刃していた、もしくは行方不明だった)ということで、文字通り主君のために体を張り、自身が犠牲となる形で会津戊辰戦争を終結させます。
この結末に対しては、松平容保自身が萱野権兵衛に詫び、忠義を謝する言葉を残しているようです。
その後昭和9年(1934年)、有志によって建立された碑は、現在も鶴ヶ城(公式サイト)の旧本丸エリアに残されていますが、Googleマップ等ウェブ地図には位置が記載されていないようです(旧本丸エリアの北側に位置していたような記憶があるのですが、ボランティアガイドさんのガイドに沿って見学した場合、終盤に案内してもらえます)。
参考:WEB歴史街道 “萱野権兵衛の切腹“