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東京街歩きと”大御所時代”
大御所時代と幕末日本
(以下、”駒形どぜう“の記事から移転しました)
大御所時代
今をさかのぼること200年以上前、西暦1800年頃の東京は、徳川15代将軍の中でもダントツの最長である50年に渡って(1787年~1837年)将軍を勤めた、11代将軍徳川家斉の治世期、いわゆる”大御所時代”の初期にあたる時代でした。
8代将軍・徳川吉宗の”在位29年(1716年~1745年)”が家斉の在位期間に次ぐ長さなので、50年に及ぶ家斉の治世がいかに突出して長いかというあたりを推しはかることも出来るのですが、家斉は将軍引退後も前将軍=大御所として、自身の死に至るまで4年ほど実権を握り続けました。
寛政の改革を実行した老中・松平定信が老中を辞した後の家斉の将軍在位期間(1793年~)と、”大御所”となった家斉の死によってその施政が終わるまで(~1841年)の期間の政治は、後に大御所となる将軍家斉が実権を握っていた期間(1793年~1841年)の政治だったということで、大御所政治と呼ばれます。
将軍在位期間は50年、大御所政治は48年と、厳密には双方の間に若干のズレがありますが、実質ほぼ同じ長さを持っています。
寛政・天保の改革と大御所時代
家斉の将軍就任直後に老中・松平定信によって進められた寛政の改革と、家斉の死後、老中水野忠邦によって進められた天保の改革に挟まれた期間の政治が大御所政治、政治を含めて時代を総称する場合は”大御所時代”です。
“寛政の改革期(11代将軍家斉、老中松平定信)→大御所政治期(11代将軍家斉)→天保の改革期(12代将軍家慶、老中水野忠邦)”の流れの大局的な特徴としては、”大御所”前後が厳しい時代だったことが挙げられます。
金権政治時代(老中・田沼意次主導)の反動として訪れた、庶民にはキツめの風紀が要求された時代(松平定信主導・寛政の改革期)が”大御所”前の時代、社会全体の気風が緩んだ時代だったといわれた大御所政治の時代を経て、直後から風紀・経済政策共引き締めを旨とした天保の改革(水野忠邦主導)が始まりました。
引き締めと引き締めの間に緩い大御所時代が到来した理由には、他ならぬ徳川家斉が持っていた気質に起因する部分も多分に含まれていたのでしょうが、庶民文化の主役となるのはもちろん庶民です。
つまりは、そういうめぐりあわせだったということなのでしょう。
時の狂歌が「白河の 清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と謳った時代の直後、庶民の本音を踏襲したかのような時代が到来することによって、江戸の町民文化は集大成の時(化政文化の時代)を迎えました。
余談として、”化政文化”繁栄のきっかけの一つに、時の幕府が主導した金融政策があります。
松平定信の失脚後も寛政の改革路線の政策を継承し、”寛政の遺老”と呼ばれた老中・松平信明(のぶあきら)が自身の死去によってその座を退くと、その後をかつての”田沼意次派”老中・水野忠成(ただあきら)が引き継ぎ、”寛政の改革”期以来行き詰っていた財政難に対して、質を落とした小判を大量に鋳造するという手を打ちます。
現在の金融政策でいうところの”量的緩和”政策(貨幣を大量に発行し、市場に流通させる政策)にあたる政策ですが、質を落とした小判を大量に鋳造することによって、幕府財政を立て直すことが狙っわれました。
単純に「お金が足りないなら作ればいい」という理屈に基づいた政策ですが、市場に大量に小判が出回れば必然的にその価値が下がるため、相対的に物価は上昇します。”大御所時代”の小判鋳造政策でもそのご多分に漏れず、大量の小判が市場に流通した後には物価が上昇することとなりました。
“お金が市場に多く出回る”ことによってモノの値段が上がるのであれば、物価の上がり方如何では庶民の生活を苦しめることにつながりかねないのですが、他方で”お金が市場に多く出回る”状態は、経済活動を活性化させやすいという性格を持っています(政策的にインフレ=物価高を誘導することが狙われた”インフレ・ターゲット政策”では、この効果を得ることが目的とされます)。
物価上昇と経済活性化は本質的に表裏一体の関係にあって、”物価上昇”の効果にしても毒にも薬にもなり得るものではあるのですが、少なくとも大御所時代の小判鋳造政策では物価上昇が商品生産を刺激し、商人の経済活動を活発にした、さらには化政文化が開花したというように、”インフレ”が吉と出た結果をもたらしました。
大御所時代の危機と繁栄
そもそも大御所時代の前後に大きな改革が必要とされた理由には、寛政・天保共、飢饉対策や、飢饉を理由とする打ちこわし対策等、天災の発生に起因するものが含まれていました。
寛政の改革は田沼政治への反動の他に天明の飢饉対策(天明の飢饉に伴った天明の打ちこわし騒動が”田沼政治”に引導を渡し、”寛政の改革”を呼び込みます)、天保の改革は”田沼政治”から連なる大御所時代の風紀引き締めの他、”小判鋳造”に伴うインフレ対策や、度重なる凶作がもたらした天保の飢饉対策(一揆・打ちこわし対策を含みます)をそれぞれ主目的に含みます。
二つの改革の間に位置する大御所時代の世相を映す社会的事件にしても、歴史的大火(“どぜう”表記のきっかけとなった江戸三大大火の一つ、文化=丙寅の大火)の発生、歴史的飢饉(江戸三大飢饉の一つである天保の大飢饉)の発生、一揆や打ちこわしの激増など、前後の時代に負けず劣らずの物騒なものばかりが挙げられます。
その反面で明るい話題もまた時代の特徴となりましたというように、元々が危機の時代の中にある繁栄の時代だったんですね。
“大御所時代”の文化年間(1804年~1818年)と文政年間(1818年~1831年)には、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』がベストセラーとなり、歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』や葛飾北斎の錦絵『富岳三十六景』が広く庶民の支持を受けるなど、江戸の町人文化がピークを迎え、庶民の街道旅行も盛期を迎えます(参考:国立国会図書館”錦絵でたのしむ江戸の名所“内”名所の成立“)。
この時代にもたらされた文化的な繁栄は、貨幣鋳造に伴うインフレが奏功したほか(ひと時の繁栄の後に再び物価高騰が深刻なものとなったため、天保の改革において対策が要求されます)、庶民を追い込むような規制とは無縁の時代だったことが幸いする形で訪れました。
衣食足りた庶民たちの間では広く教養が欲された時代でもあり、精神の自由を謳歌し、学問を奨励する空気も生まれますが、その結果寺子屋教育が盛んとなり、ほどなく訪れる幕末の乱世に歴史的な偉人を多数輩出し得たベースも作られます。
例えば、後に明治の世で”天保の老人”と揶揄されることになった、幕末の乱世以来日本を支えた著名人の多く(福沢諭吉や”最後の将軍”徳川慶喜、西郷従道等のほか、いわゆる幕末の志士の多く)が、大御所時代の末期=天保年間に生まれています。
大御所時代の終焉と幕府政治の衰退
大御所・徳川家斉の死後早々、老中・水野忠邦が主導する天保の改革がはじまりますが、概して時勢に影響を受けてそうなったといえる部分が色濃い話しとなって、日本史の流れが変わりはじめます。
端的に言うなら、江戸幕府終焉へのカウントダウンが始まりました。
例えば天保の改革では、前記した”小判鋳造に伴うインフレ対策”として打ち出される政策についてもまた、的を射なくなって行きます。
モノづくりが進化を遂げ、貨幣経済が発達し、物流も進化したことによって、人々の生活態様は必ずしも農業を中心としなくなっていくのですが、その結果農業を中心とした社会を想定する幕府の政策が、経済政策の”肝”を見誤るようになって行くんですね。
そうなると幕府の権威も低下の一途を辿り、諸藩に対して睨みが効かなくなっていくのですが、その背後には、幕府が上手く対応できなかった新時代への変化にいち早く対応していた、後に討幕の主勢力となる西国の雄藩(薩長土肥)が控えていました。
弱り目に祟り目という話しで、およそこの時期を境として、後に幕府にとっての致命傷となる”列強からの外圧”も強まっていきます。
文明開化の時代へ
11代将軍徳川家斉の大御所時代を経て、12代将軍徳川家慶以降”最後の将軍”15代徳川慶喜の時代にかけての時代の”海の外”は、アメリカ独立戦争やフランス革命に代表される市民革命の時代であり、ナポレオン戦争(フランス革命の延長的な意味を持った戦争)後に訪れたウィーン体制(旧支配階層による反動保守の統治)を崩壊へと向かわせた、1848年革命の時代でした。
“一部特権階級とそのほか大勢”が社会を構成する絶対王政の時代が、いよいよ終焉の時を迎えようとしていた世界の激動期。日本海の向こうに位置する中国大陸では、清王朝がアヘン戦争の敗戦によって植民地時代のはじまりを迎えようとしていました。
討幕の必要性についてはさておき、日本にとってもはや開国(=列強との国交樹立、交易開始)は不可避であり、国の統治体制自体を早急に整えることが必須だった状況下の話しです。
あとは列強に並び立てるか、それとも列強の植民地となるかの二択があるのみでしたが、開国後、日本は幸運にも列強の植民地にならずに済み、「ザンギリ頭(=ちょんまげを結わない頭)を叩いてみれば 文明開化の音がする」時代が訪れることとなりました。
ちなみに明治の世で流行った都々逸には、この有名な一節の他”半髪(=ちょんまげ)頭を叩いてみれば 因循姑息の音がする”という一節も含まれていますが、かつての武士階級を揶揄した下りから、開国・開港によって幕を開けた新しい時代への期待が少なくなかったことも伺われます。
その反面、江戸の庶民文化が集大成の時を迎えていたような時代、特に大御所時代の庶民文化を思う時などには、古き良き時代に対する一抹の郷愁を感じずにはいられないというのもまた、多くの人の本音だったりするのではないでしょうか。
古代以来の由緒がある浅草寺の傍には江戸時代以来の馴染みである吾妻橋が架けられ、さらには文明開化の時代以来の花形バーである日本初のバー・神谷バー(公式サイト)もありますが、その風景の中にはまた、平成オープンの東京スカイツリー(公式サイト)が見えたりもします。
ぱっと見の風景が多くの”何か”を伝えてくることも、江戸・東京の魅力ですね。