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【開国と開港/開港までの開港5都市】湊町新潟の開港以前

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新潟港の開港前史

新潟港(新潟県公式サイト “新潟港の概要“)は、開港5港の中では”兵庫津”をルーツに持つ神戸港に続き、二番目に古い港としての歴史を有しています(参考:兵庫津と兵庫港、神戸港)。

平安時代(10世紀)に蒲原津かんばらのつとして始まった後、南北朝時代には沼垂ぬったり湊として栄え、戦国時代以降は新潟湊としての繁栄を謳歌することとなりました。

江戸時代に至ると越後長岡藩の施政下での新潟湊(新潟町、沼垂町)の発展が促進され、現在につながる”新潟島”界隈の町割りも固まって行きますが(江戸時代前期、17世紀前半)、自然の恵みが豊かであり、海の幸にも山の幸にも恵まれたことから古来より様々な人が訪れる地であったことが、開国・開港時代以降の発展に繋がって行くことになったのだという形ですね。

幕末・維新期以降は港の進化に足踏み状態が続いた時期もあったものの、明治・大正年間には湊が港として整備され、なおかつ鉄道が敷設されたことによって、日本海側の開港都市としての基盤も確固としたものとなります。

参考:湊と港

ところで、湊町・新潟の発展にとって、信濃川があり、阿賀野川があり、かつ海岸線が長く伸びていたことはとても大きな恩恵となっていますが、例えば信濃川の流域から多く出土している”火焔土器”は、当時の新潟で栄えていた縄文文化の象徴ともなっています。

参考:【秋の箱根泊/箱根の紅葉めぐり2021】箱根美術館(館内に火焔土器の常設展示があります)

その時代の具体的な様子が文字に残された上で後世に伝わるということがなかったとしても、それなりに高度な文化がすでにそこにあったのではないか、といったことを推測させるに足る一品となっている形ですね。

東日本各地への特産品の分布の他、国内各地への”類似土器”の分布状況を根拠とする場合、後の新潟港エリア(及び近隣)を起点とする交易の跡は、既に弥生時代頃にはその形跡が残されているようです。

「文字としての記録には残されていないものの、状況証拠的には海運を利用したネットワークの広がりが推定される」という場合の交易相手エリアとして考えられるのは、例えば縄文時代に盛期を迎えていたという三内丸山遺跡が残された、青森エリアなどですね。

有史以前、つまり人類が文字の使用を覚える以前から日本海、あるいは信濃川・阿賀野川を通じた交易ルートが発達していた(遠隔取引が行われていた)と推測できるのであれば、新潟湊のルーツの本当のところについては、定かではないところを持っている(文字記録に現れる以前から、その実態が伴っていたのではないか)と捉えるのが正解なのかもしれません。

参考:ひすいラインの”ひすい”、新潟県埋蔵文化財センター “越後国域確定1300年記念事業「遺跡が語る弥生・古墳時代の越後」“、吉田秀樹 “港の日本史” 祥伝社新書(2018.3.10)、新潟市(文化スポーツ部歴史文化課)『図説 新潟開港150年史』他

後の”新潟港”を起点とした交易自体はかなり昔から行われていたようだ、古来より発展するべくして発展してきた、有史以前からの経済上の拠点だったのだと判断できそうな所だということなのですが、この点は”開港”全般ともかかわってくる部分に該当します。

開港とは本質的に”国内ローカルの流通経路を世界規模の流通経路に融合させること“だからですね。

この点、特に開港五港(新潟、横浜、神戸、長崎、函館)に下田を加えた六港には、内と外をつなぐハブの役割が与えられた(=その役割を与えられるに足るだけの理由をもって、それぞれの港が開港された)と捉えられるところとなって来るのですが、5つの港が開港拠点とされたことはまた、日本という国自体が表立って世界に繋がれたことを意味しました。

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