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【開国と開港/開港までの開港5都市】日本の成り立ち、海運事情の源流

開国と開港

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国内・海外のつながりと”ことはじめ”

はじまり:~12000年前

すべての大陸が繋がる形で形成されていた”超大陸パンゲア”が出来た約3億年前、パンゲアがおよそ今の大陸の形に分裂した約7000万年前といった時間軸で考えた場合はごくごく最近の出来事だということになって来ますが、後の日本列島にあたるエリアは、今からおよそ2400万~1500万年前、後に日本海となる”大陸の裂け目”の誕生によってユーラシア大陸から切り離された後、今から約12000年ほど前に訪れた氷期の終わりが海面上昇をもたらしたことによって、現在の地形となりました。

現在の東アジアエリアにおいて現生人類の祖先の活動が確認され始めた頃(約200万~12000年前)の樺太付近、および玄海灘付近の海域では、”大陸と陸続きになる、その結果現在の日本海エリアが海ではなく湖のような状態になる“という時期が繰り返し訪れてはいたのですが、実際には既に陸続きといえる地形ではなかったんですね。

「それは氷期による海面低下が作り上げた、暫定的な地形に過ぎなかったためです」ということで、今から約12000年前に氷期が終わると、「その時期(=旧石器時代)の日本列島エリアにいた人たち」はそのまま”島国”に取り残される形となりました。

以降、長らくの期間に渡って大陸エリアとは別の進化を遂げ、かつ独自の文化を形成する土台が用意される運びとなっていくのですが、当時の日本列島エリアに居住していた”日本人の祖先”に当たる人たちは、もとより”ガラパゴス”状態で始まったわけではなく、「北方からナウマンゾウを求めて南下した人たち」や、「アフリカ大陸やユーラシア大陸西端エリアから”陽の光”を求めて東進を続け、最終的にこの地にたどり着いた人たち」であると考えられています。

単純に食料を求めて(樺太やシベリア方面から)南下したか、あるいは東から上る太陽=”日の出”を求めて、はるか西方(アフリカ大陸や西欧エリア)から現在の玄界灘経由の陸路で流れ着くことになったか、いずれかによっていると推定されている形ですね。

参考:水産研究教育機構日本海の生い立ち“、海洋研究開発機構日本海がどうしてできたか知っていますか?”、ニュートンプレス”地球46億年”(2020.7.15)ほか

定住と遠隔交易開始:縄文・弥生と”神話”の時代

現在、日本列島で確認されている最古の人骨は、約32000年前~14000年前のものです。

“人骨”の主は、”後の日本列島”が未だ大陸と陸続きだった時期を持つ時代にこの地にたどり着いた人たちであり、やがて”日本列島に閉じ込められることになった”という人たちでもありますが、そもそもこの人たちがどこから来たのかということについては、目下のところ未だ完全には特定し切れていないようです。

単純に糧を求めてか、それとも”陽”を求めてか、各々の理由によって各地から日本列島へと渡って来た”日本人の祖先”たちは、やがて”東の果ての地”=日本列島内にて進む定住生活の中で、それぞれのコミュニティ間をつなぐネットワークを利用した交易を開始しますが、これがおよそ縄文時代の話しであると推定されます。

“最古の人骨”となった人たちの後、今からおよそ13000年(~2400年)ほど前にこの国にて生を受けた縄文時代の人々が作り上げていくことになった社会では、土器の使用が始まったことや、”新石器”時代と区分されるように、より凝った道具(磨製石器)が使用されるようになった点、さらには生活単位も血縁を柱とした家族単位の塊から、やがて複数(以上の)家族が共同で暮らす集落単位のものへと進化した(その生活痕が、”環状集落“の形で残されることとなった)ことなどが、その特徴として挙げられます。

狩漁しゅぎょ生活”を柱としたその日暮らしからの定住化が進む傍らで、狩りや漁の習慣は継続しつつ、道具の進化によって食料は加工・貯蔵されるようになっていった上、既に農業も行われていたとされるこの時代(=縄文時代)には、”各自の生活拠点の存在”を前提とする遠隔交易もまた、人々の暮らしの中に組み込まれて行きました。

参考:“ひすい”と日本海ひすいライン新潟港の開港前史

縄文時代の人々の生活を彩った土器や道具が持つ華美な装飾等の意味合いは、「他者や他コミュニティに対する自己(あるいは自らが身を置くコミュニティ)の存在の特別化」にあたるのだと解されることがありますが、皆が平等に近い立場にいたコミュニティ(=複数の家族が固まった集落)の中で力を合わせ合いつつも、時に“遠隔交易”(長距離の海路を利用するものを含む)が日常生活を支える場面も出てくることとなった点も、縄文時代の特筆すべき特徴の一つに上げることが出来ます。

人々の定住化が進んだこと、さらに各定住拠点間でネットワークが形成されたことによって可能となった遠隔交易では、陸地の他、河川や海路も流通経路に利用されたことが(定住地に残された道具や生活痕から)推定されていますが、”縄文期”以来のベースがあったことによってさらに発展することとなったのが、大陸から日本へと渡って来た渡来人の影響を受ける形で成立し、稲作の普及や武器の使用、環濠(周囲に堀を巡らせた)集落を持つことなどがその特徴として挙げられるという、続く弥生時代の社会です。

「縄文時代の後期、気候変動によって寒冷化が進んだことを主な原因として”東から西へ”という人口移動が起こった時、ほぼ時を同じくして日本社会は大陸からの影響を受けることにもなった。この時に”縄文社会”のネットワークを新規に利用する形で(言い方を変えると、縄文期の人たちがこの変化を受け入れ、併せ呑むことによって)、渡来人が持ち込んだと考えられている文化自体が西日本中心に広まっていくことになった」というのが、ざっくり捉えた時の縄文時代から弥生時代(さらには弥生時代に続く古墳時代=ヤマト政権の時代)への変化にあたります。

この変化はまた、”弥生ナイズド”される形の進化を遂げた縄文社会が、ヤマト政権、さらには後の日本社会の礎となっていったと捉えることもできるところですが、後に残されることとなった古事記や日本書紀といった国内最古の文献記録の背景事情となっていくのが、まさにこの時代までに蓄積されていたと推測できる”日本社会の動態”にまつわる当時の人々の記憶です。

国内最古の史書を行間部分で支えているのは、恐らく”ヤマト政権”時代の直近の弥生時代の記憶であり、さらには弥生時代の礎となった縄文時代の記憶ですね。

惜しむらくは、この時代の日本人の祖先たちは未だ文字を使用していなかったため、全ては残された道具や生活痕、さらには口伝(言い伝えなど)からの推定に頼らざるを得ないということになってくる部分ではあるのですが、ともあれ、縄文時代に10000年かけて培われていたベースの上に、大陸より伝来し、日本風にアレンジされたという”弥生文化””古墳文化”が生まれたことによって、時の日本社会には新たな成長の時が訪れることとなりました。

そもそも縄文時代を縄文時代たらしめた”縄文土器”の存在自体が外来の文化経由だったとされている節もありますが、「島国でありながらも、外界からの刺激を効果的に受け入れることによって、それぞれの時代の社会が身の丈に見合った進化を遂げていくことが可能となった」というある意味特異な成長形態は、文字が使用される以前の時代からのこの国の一つの在り方だったんですね。

参考:松木武彦 “日本の歴史 列島創世記”(小学館、2007.11.14)、田中英道 “日本古代史”(育鵬社、2021.5.10)ほか

補足:文字の使用のはじまり

日本国内でいうところの縄文時代から弥生時代にかけての時期、人類が文字の使用を開始します。

日本でいうところの縄文時代の終わり位の時期(今からおよそ数千年前~3000年程度前)、メソポタミア文明の発祥地では楔形くさびがた文字の利用が、中国では甲骨文字の利用が、それぞれ確認されていますが、“文字に残された過去の世界”に初めて日本が登場するのは今からおよそ2000年ほど前、いずれも弥生時代から古墳時代にかけての話しです。

人類の文字使用開始以降、少し時間が経ってからのことですね。

「当時の日本には100余りの(≒たくさんの)クニ(≒地域社会)があって、時の中国(=漢)に貢物を持って訪れていた」(”『漢書』地理誌”に残された記載。今から約2000年ほど前)ことや、「時の日本の”国王”が中国の皇帝(光武帝)から金印を拝受した」(『後漢書』東夷伝に残された記載。今から約1600年ほど前)ことの他、そもそも記載事項の信ぴょう性自体に疑問符が付されつつも、その存在についての激論が繰り返されて今日に至るという曰くがある、”邪馬台国”についての記載(『魏志』倭人伝に残された記載。今から約1700年ほど前)などが、日本にまつわる最古の記録として遺されることとなりました。

さらに今から約1300年ほど前(8世紀)には、日本で最初の文字文献である『古事記』『日本書紀』が登場しますが、いよいよこの時代より先、日本という国の生い立ちが”文字”で記されることとなって行きます。

結果、国内相互のコミュニティ間のかかわりや、海外各地とのかかわりについても、さらに進化を遂げる形で進んでいくこととなりました。

参考:田中英道 “邪馬台国は存在しなかった”(勉誠出版、2019.1.7)ほか

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