斎藤一と会津藩
斎藤一(藤田五郎)の墓

阿弥陀寺(会津若松七日町通り “阿弥陀寺“)境内、御三階傍には、
新選組で三番隊組長を勤めた斎藤一の墓があります。

墓石には”藤田家の墓”とありますが、これは斗南に移転した頃、会津藩・藤田家の養子となって、藤田姓の「藤田五郎」を名乗るようになったことに依っています。
余談として、新選組・近藤勇の墓と土方歳三の慰霊碑も、同じく会津若松市内にあるようです(参考:会津若松観光ナビ “天寧寺・近藤勇の墓“)。
新選組と斎藤一、土方歳三
新選組は、幕府の呼びかけによって江戸で結成された「浪士組」にルーツを持ち、後に京の壬生(壬生寺公式サイト)を拠点とすることになったという、元々は「浪士の集団」でした。
よく知られた天然理心流・試衛館の面々のほか、水戸藩を脱藩したと考えられている浪人などで発足した「浪士組」は、その一部がいわゆる「攘夷」を目的に含んでいたという「迷走期」を経て、やがて「局中法度」に象徴される鉄の掟で「佐幕」を貫く武闘派集団、壬生浪士組としての活動を開始します。
これが1863(文久3)年のことですが、同年、会津藩士・秋月悌次郎が中心となって実行した八月十八日の政変後に「新選組」と改名し「会津藩預かり」となると、最終的には1867(慶応3)年、一般隊士が寄合格、組長が旗本格での幕臣待遇(幕府の直轄組織)へ。
ここにおいて元「浪士」の集団・新撰組は、正式にサムライの集団となりました。
その後程なく隊を挙げて戊辰戦争に参戦すると、各々は壮烈に散っていくこととなるのですが、例えば試衛館(試衛場)にて天然理心流の稽古を通じて知り合い、以降終生の付き合いをすることとなったという「新撰組の顔」、浪士組・新撰組最古参の近藤勇、土方歳三、沖田総司の三人は、三者が三様に「新選組に生き、新選組に死す」人生を歩むこととなりました(参考:土方歳三と五稜郭、戊辰戦争)。
一方で、素性にも新選組とのかかわりにも色々と謎が多い、壬生浪士組(京都)以降の新撰組隊士である斎藤一の場合、最終的な身の振り方に、少々「生え抜き隊員」達との温度差が生じています。
会津戊辰戦争にて義をもって会津藩と生死を共にする覚悟を決めた斎藤一は、さらに北への転戦を主張する盟友・土方歳三と袂を分かち「如来堂の戦い」に挑むのですが、この別れは結局、最終的に五稜郭を死地に定めた「鬼の副長」土方歳三、および三番隊組長を勤めた新撰組との永別の機会となりました。
会津戊辰戦争を奇跡的に生き抜いた斎藤一は、戦後新政府軍に投降すると、会津藩が斗南に移封された際には自身も斗南に移転し、やがて会津藩・藤田家の養子となって藤田姓を名乗ります。
さらにのち、会津藩大目付・高木小十郎の娘である高木時尾と結婚した際には、旧会津藩主の松平容保、会津藩士(家老)として会津戊辰戦争を戦い、後に新政府の警察官として西南戦争に従軍・戦死した佐川官兵衛、同じく会津藩士として戊辰戦争を戦い、後に明治政府に出仕して教育行政に尽力した山川浩など、錚々たるメンバーが仲人を務めています。
会津戊辰戦争以降も終生を「旧・会津藩」と共にする形となった元新撰組三番隊組長・斎藤一は、最終的に会津人「藤田五郎」となって新時代を生きることとなりました。
参考:歴史春秋社『会津藩と新選組』2023.9.30 他

